倭王卑弥呼から日本国初代天皇まで(1~5)

難民救済・ヤマト統一

東征・大軍事作戦

弥生時代の総人口59万人が古墳時代のピークで610万人へ増加する。550万人の民はどこから来たか?AD183年黄巾の乱から始まる中国大陸の戦乱はAD280年まで約100年続き、避難者の大移動がはじまる避難者は、ボートピープルとなり、次から次へ北九州へ流入した。大規模な東アジア人の波状的移住の始まりである。この難民流入を統率し倭国統一をなした女王がいた、その名は、卑弥呼である。

東アジア
East Asia

中国大陸
朝鮮半島
江南地方
(ベトナム・ラオス
・カンボジア・タイ)
等からの避難民

倭王・卑弥呼は流入避難民をどう解決したか?

再記述
縄文人・弥生人、登場人物の確認、時代背景と国際情勢など


原住・縄文人

縄文人
BC14000 ~BC1,000
東アジア人集団から孤立し
独自の進化をとげた集団

DNA解析では
東アジア人の遺伝子で北、西、南から移住してきたと判断されます。縄文人は東ユーラシアの集団と遺伝的に一番近い。

縄文人の言語文法は、
アルタイ語族と接触、日本語族、朝鮮語族のもととなる、SOV型文法を獲得したとおもわれます。『私は(S)あなたが(O)好きです(V)型です。語彙音はマレー・ポリネシア語派から取り入れたと思われます。


日本列島で原住民化


日本列島に12,000間住んでました。
文化圏も北海道から沖縄本島と広い。縄文古墳の分布から確認できました。

寒冷化で76000人に減少
東京大学の研究グループが
現代の日本人男性のDNA解析

縄文人の特長は
魏志倭人伝より抜粋
弥生後期の記載ですが、邪馬台国及び近隣国の様子が詳細に記載されています。弥生晩期には、縄文人は九州に集中していたと思われます。

7,(一大国から)また、一海を渡ること千余里で、バツロ国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない。魚やアワビを好んで捕り(※)、水の深浅にかかわらず、皆、潜ってこれを取っている。

15、男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来(※)、その使者が中国に来たときには、みな大夫を自称した。

16、夏后の少康の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み入れ墨はまた大魚や水鳥を押さえる為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある

20、倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟は別の所で寝る。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。

27、大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。

28、その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴訟も少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者にそれぞれ臣服して保たれている。

原住・弥生人
中国大乱避難民


弥生期から人口急増
約590000人
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ネクスト原住民・弥生人

BC1100年頃、殷の滅亡周建国
大陸から避難民流入、・稲作民が北九州へ入植を始める

BC770春秋時代
BC403戦国時代 BC473呉が滅び、BC334越が滅ぶ、
BC200秦が建国、BC223楚が滅ぶ、BC207秦が滅ぶ


中原(華北地方)混乱
民族避難移動、玉突きで朝鮮半島の南端にいた人たちが対馬海峡を渡った。江南人(呉、越、楚人)や漢人が波状的に日本列島に流入す。
万里の長城建設期;避難民は遼東半島に逃避す。半島の辰韓、弁韓、『秦人』と呼ぶ。列島への移住活動活発化。

弥生人のDNA分布
BC4から2世紀Y-DNA分布は、
縄文系(D)は40%、北方系と南方系(C)10%弱

移住流入人は
楚系(O1a)が1.6%、
越系(O2a)が1.4%、
呉系(O2b)が28.5%、
黄河系(O3)が19%で全体の半分を占めます。

倭国外交
・邪馬台国

AD57
後漢光武帝「漢委奴国王」

安全保障条約に相当

次の国は奴國。金印「漢委奴国王」出土したのは志賀島(福岡県福岡市東区)です。奴国の王都は春日市の須玖岡本遺跡を中心とする須玖遺跡群(すぐいせきぐん)と特定されています。当時の日本では最大規模の青銅器工房がありました

倭国の役割
秦の遺民保護

新たな流民対策

『後漢書』
半島の馬韓
馬韓人は定住民(穀物、養蚕)
半島の弁韓、
辰韓と弁辰(弁韓)

外交の後ろ盾亡ぶ

AD180、後漢が滅ぶ
中原の混乱で避難者の大移動はじまる
北九州への大規模な流入。東アジア人が波状的移住を始まる
弥生時代の総人口59万人が古墳時代のピークで610万人へ増加する。
増加人口は、大陸や半島からの避難民=移住民です。

歴史人口学の鬼頭宏(2007)日本の人口の超長期推移をグラフ(出典)

三国の覇者達


卑弥呼の戦略


180年頃 - 280年頃
三国(蜀・魏・呉)時代

184年
黄巾の乱になじまり

曹操、劉備、孫権の
三国鼎立の覇権争い

魏皇帝
238年
卑弥呼朝見

265年
西晋へ権力禅譲

280年
三国の争い終結
100年間の戦乱

海を渡る戦時難民
古代はより過酷
下記写真は現代版

100年戦争時代

赤壁の戦い

184年、後漢末期、黄巾の乱
群雄割拠の状態となる。曹操は192年は、青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に急激に勢力を拡大させた。

196年、曹操は屯田制を開始
流民を集めて耕す者がいなくなった農地を耕させた。200年には官渡の戦い袁紹を破り、207年には袁氏に味方する騎馬遊牧民族の烏桓を撃ち破って中国北部を手中に収め、同年後漢の丞相となる。

208年、赤壁の戦い
曹操は南方の孫権劉備連合軍を攻めるが、周瑜らの火計により敗れ、飢餓と疫病も重なり非常に多くの兵士が亡くなる。

213年、魏公に封じられた
216年、さらに曹操は魏王に封じられた。215年、曹操は漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。その後、曹操軍は数年間にわたり、益州(蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。

219年、曹操は司馬懿蔣済の提案に従い、孫権と同盟を結び、徐晃らを派遣して関羽を破った(樊城の戦い)。220年、曹操は病のため死去した。

覇権:魏&西晋

220年、魏建国、
222年、魏は3方向から呉を攻め、包囲攻撃し、孫盛諸葛瑾を破ったが、疫病が流行したため退却した。234年、敵対国の諸葛亮が病死。

238年、邪馬台国朝見魏志倭人伝
司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。同年、邪馬台国卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる

 265年、曹操政権、権力禅譲
中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。45年間しか続かなかった王朝だが、「曹操政権」である。その権力を引き継いだ司馬炎により新たに西晋を建てる。

265年、西晋建国(- 316年
成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、280年を滅ぼして三国時代を完全に終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を約100年振りに再統一した。国号は単にだが、建康に遷都した後の政権東晋)に対して西晋と呼ばれる。

テーマは
邪馬台国は、流入難民をどう生かし、どう倭国を作るかです!!



倭王・卑弥呼

親魏倭王
金印紫綬

魏志倭人伝より抜粋
1,昔(漢の時)は百余国で
(中略)今、
交流の可能な国は三十国

統治する人口
4,対馬国は、千余戸の家
6,壱岐、三千ばかりの家
7,バツロ国は四千余戸
8,イト国は千余戸
9,ドゥ国に二万余
10、フウビ国は千余家
11、投馬国に五万余戸
12、邪馬壱国に七万余戸
合計、15万戸
概算人口
筆者予測
6掛けとして36万人。
九州南の隼人を加味したら、
弥生期人口の80%以上が
九州にいたことになる

流入人口
弥生時代の総人口59万人
古墳時代のピーク
610万人

縄文・弥生人政権に倭王印綬

経緯(魏志倭人伝記)

38、景初二年(238)六月倭の女王は
大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた。その年の十二月詔書が倭の女王に報いて、こう言う

39、制詔、親魏倭王卑弥呼
帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装い、封をして帯方太守に付託することで仮りに授けておく。汝は部族の者を安んじ落ち着かせることで、(私に)孝順を為すよう勤めなさい。

汝が献じた貢ぎの見返りとして与える
40、汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を賜って帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。

印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬
41、正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。  並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。


倭王:卑弥呼
印綬をもって
「移住流入民の受入」「全国への配分」
中央政権樹立を目指す

240年、全国統一を発する
弟が東征総大将
【筆者;政治学見解】