倭王卑弥呼から日本国初代天皇まで(1~5)

難民救済・ヤマト統一

東征・大軍事作戦

弥生時代の総人口59万人が古墳時代のピークで610万人へ増加する。550万人の民はどこから来たか?AD183年黄巾の乱から始まる中国大陸の戦乱はAD280年まで約100年続き、避難者の大移動がはじまる避難者は、ボートピープルとなり、次から次へ北九州へ流入した。大規模な東アジア人の波状的移住の始まりである。この難民流入を統率し倭国統一をなした女王がいた、その名は、卑弥呼である。

東アジア
East Asia

中国大陸
朝鮮半島
江南地方
(ベトナム・ラオス
・カンボジア・タイ)
等からの避難民

倭王・卑弥呼は流入避難民をどう解決したか?

再記述
縄文人・弥生人、登場人物の確認、時代背景と国際情勢など


原住・縄文人

縄文人
BC14000 ~BC1,000
東アジア人集団から孤立し
独自の進化をとげた集団

DNA解析では
東アジア人の遺伝子で北、西、南から移住してきたと判断されます。縄文人は東ユーラシアの集団と遺伝的に一番近い。

縄文人の言語文法は、
アルタイ語族と接触、日本語族、朝鮮語族のもととなる、SOV型文法を獲得したとおもわれます。『私は(S)あなたが(O)好きです(V)型です。語彙音はマレー・ポリネシア語派から取り入れたと思われます。


日本列島で原住民化


日本列島に12,000間住んでました。
文化圏も北海道から沖縄本島と広い。縄文古墳の分布から確認できました。

寒冷化で76000人に減少
東京大学の研究グループが
現代の日本人男性のDNA解析

縄文人の特長は
魏志倭人伝より抜粋
弥生後期の記載ですが、邪馬台国及び近隣国の様子が詳細に記載されています。弥生晩期には、縄文人は九州に集中していたと思われます。

7,(一大国から)また、一海を渡ること千余里で、バツロ国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない。魚やアワビを好んで捕り(※)、水の深浅にかかわらず、皆、潜ってこれを取っている。

15、男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来(※)、その使者が中国に来たときには、みな大夫を自称した。

16、夏后の少康の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み入れ墨はまた大魚や水鳥を押さえる為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある

20、倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟は別の所で寝る。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。

27、大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。

28、その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴訟も少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者にそれぞれ臣服して保たれている。

原住・弥生人
中国大乱避難民


弥生期から人口急増
約590000人
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ネクスト原住民・弥生人

BC1100年頃、殷の滅亡周建国
大陸から避難民流入、・稲作民が北九州へ入植を始める

BC770春秋時代
BC403戦国時代 BC473呉が滅び、BC334越が滅ぶ、
BC200秦が建国、BC223楚が滅ぶ、BC207秦が滅ぶ


中原(華北地方)混乱
民族避難移動、玉突きで朝鮮半島の南端にいた人たちが対馬海峡を渡った。江南人(呉、越、楚人)や漢人が波状的に日本列島に流入す。
万里の長城建設期;避難民は遼東半島に逃避す。半島の辰韓、弁韓、『秦人』と呼ぶ。列島への移住活動活発化。

弥生人のDNA分布
BC4から2世紀Y-DNA分布は、
縄文系(D)は40%、北方系と南方系(C)10%弱

移住流入人は
楚系(O1a)が1.6%、
越系(O2a)が1.4%、
呉系(O2b)が28.5%、
黄河系(O3)が19%で全体の半分を占めます。

倭国外交
・邪馬台国

AD57
後漢光武帝「漢委奴国王」

安全保障条約に相当

次の国は奴國。金印「漢委奴国王」出土したのは志賀島(福岡県福岡市東区)です。奴国の王都は春日市の須玖岡本遺跡を中心とする須玖遺跡群(すぐいせきぐん)と特定されています。当時の日本では最大規模の青銅器工房がありました

倭国の役割
秦の遺民保護

新たな流民対策

『後漢書』
半島の馬韓
馬韓人は定住民(穀物、養蚕)
半島の弁韓、
辰韓と弁辰(弁韓)

外交の後ろ盾亡ぶ

AD180、後漢が滅ぶ
中原の混乱で避難者の大移動はじまる
北九州への大規模な流入。東アジア人が波状的移住を始まる
弥生時代の総人口59万人が古墳時代のピークで610万人へ増加する。
増加人口は、大陸や半島からの避難民=移住民です。

歴史人口学の鬼頭宏(2007)日本の人口の超長期推移をグラフ(出典)

三国の覇者達


卑弥呼の戦略


180年頃 - 280年頃
三国(蜀・魏・呉)時代

184年
黄巾の乱になじまり

曹操、劉備、孫権の
三国鼎立の覇権争い

魏皇帝
238年
卑弥呼朝見

265年
西晋へ権力禅譲

280年
三国の争い終結
100年間の戦乱

海を渡る戦時難民
古代はより過酷
下記写真は現代版

100年戦争時代

赤壁の戦い

184年、後漢末期、黄巾の乱
群雄割拠の状態となる。曹操は192年は、青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に急激に勢力を拡大させた。

196年、曹操は屯田制を開始
流民を集めて耕す者がいなくなった農地を耕させた。200年には官渡の戦い袁紹を破り、207年には袁氏に味方する騎馬遊牧民族の烏桓を撃ち破って中国北部を手中に収め、同年後漢の丞相となる。

208年、赤壁の戦い
曹操は南方の孫権劉備連合軍を攻めるが、周瑜らの火計により敗れ、飢餓と疫病も重なり非常に多くの兵士が亡くなる。

213年、魏公に封じられた
216年、さらに曹操は魏王に封じられた。215年、曹操は漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。その後、曹操軍は数年間にわたり、益州(蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。

219年、曹操は司馬懿蔣済の提案に従い、孫権と同盟を結び、徐晃らを派遣して関羽を破った(樊城の戦い)。220年、曹操は病のため死去した。

覇権:魏&西晋

220年、魏建国、
222年、魏は3方向から呉を攻め、包囲攻撃し、孫盛諸葛瑾を破ったが、疫病が流行したため退却した。234年、敵対国の諸葛亮が病死。

238年、邪馬台国朝見魏志倭人伝
司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。同年、邪馬台国卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる

 265年、曹操政権、権力禅譲
中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。45年間しか続かなかった王朝だが、「曹操政権」である。その権力を引き継いだ司馬炎により新たに西晋を建てる。

265年、西晋建国(- 316年
成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、280年を滅ぼして三国時代を完全に終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を約100年振りに再統一した。国号は単にだが、建康に遷都した後の政権東晋)に対して西晋と呼ばれる。

テーマは
邪馬台国は、流入難民をどう生かし、どう倭国を作るかです!!



倭王・卑弥呼

親魏倭王
金印紫綬

魏志倭人伝より抜粋
1,昔(漢の時)は百余国で
(中略)今、
交流の可能な国は三十国

統治する人口
4,対馬国は、千余戸の家
6,壱岐、三千ばかりの家
7,バツロ国は四千余戸
8,イト国は千余戸
9,ドゥ国に二万余
10、フウビ国は千余家
11、投馬国に五万余戸
12、邪馬壱国に七万余戸
合計、15万戸
概算人口
筆者予測
6掛けとして36万人。
九州南の隼人を加味したら、
弥生期人口の80%以上が
九州にいたことになる

流入人口
弥生時代の総人口59万人
古墳時代のピーク
610万人

縄文・弥生人政権に倭王印綬

経緯(魏志倭人伝記)

38、景初二年(238)六月倭の女王は
大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた。その年の十二月詔書が倭の女王に報いて、こう言う

39、制詔、親魏倭王卑弥呼
帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装い、封をして帯方太守に付託することで仮りに授けておく。汝は部族の者を安んじ落ち着かせることで、(私に)孝順を為すよう勤めなさい。

汝が献じた貢ぎの見返りとして与える
40、汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を賜って帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。

印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬
41、正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。  並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。


倭王:卑弥呼
印綬をもって
「移住流入民の受入」「全国への配分」
中央政権樹立を目指す

240年、全国統一を発する
弟が東征総大将
【筆者;政治学見解】


東征・布陣

倭王・卑弥呼

魏志倭人伝(出典)
33、名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。

消された歴史

卑弥呼の弟の東征

1,「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」を治める

卑弥呼の弟
東征の総大将を拝命
ヤマト王権の端緒

大王家つくる(著者説)

壱与
卑弥呼の宗女


卑弥呼の死後
46、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。(魏志倭人伝出典)
【著者説】
邪馬台国の王とし、邪馬台国の内乱を治めた。299年死すまで邪馬台国王。
死後
神話神となる

張政
卑弥呼弟(総指揮官の補佐)

張政 (塞曹掾史) - 三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)。帯方郡太守王頎の部下。正始8年(247年)に邪馬台国狗奴国と紛争になった際、和睦を促すために魏から派遣された。20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとされる
(ウイキペディア出典)

東征軍・主な従軍者

原住民系(縄文・弥生系
・警護・軍事・兵站管理
・船・運航管理・・海人族
渡来系・・参謀:東漢、弓月
・軍事部門・軍経験者たち
・軍馬管理・加羅族(後の平群氏
協力豪族
・九州・出雲・敦賀・吉備
・讃岐・東海などの農耕豪族

進軍経路

三方面の海路(海流)

敦賀史出典
日本海ルート
瀬戸内海+太平洋ルート

福井県史出典
大陸直接海流

宮内庁出典
敦賀~琵琶湖ルート

情報ルート

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日経新聞
各都道府県の50人のゲノム情報をもとに、その違いを可視化した。縄文人由来のゲノム成分が多い県は青色で、渡来人由来のゲノム成分が多い府県はオレンジ色で表示されている。渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県

主な提携・勢力図

東京大学農学部

東征発進

1,240年発進
卑弥呼は親魏倭王の金印紫綬(※1)を得、錦の御旗となし、既住の民を含む大陸避難者を引き連れ、九州から畿内への大軍事移動作戦を実施した。
総大将は卑弥呼の弟(※2)、軍船は縄文系海族、大陸・半島系の軍務経験者たちを大挙従え、九州の多くの民(※3)と牛馬(※4)と大陸・半島系の馬管理者族を含め、総がからり体制で三方から進軍したのです。

三方とは(※5)
第一軍は、縄文系出雲族、敦賀平野の豪族らと避難民受入れの協議をし日本海経由、後、陸路奈良へ向かう。

第二軍は、総大将は、吉備を経て、瀬戸内海路で大阪へ、大阪から川筋を馬と船で上り奈良へ向かう。

第三軍は、土佐経由か、又は、瀬戸内海経由で、讃岐、伊勢、東海へ、太平洋側からも奈良へと、軍をす進める。

3,事前調査と準備戦略は短期決戦
奈良が巨大な耕作地(※6)とは
①大陸政権との情報・物流が迅速であること
⓶全国へ避難分散移住の指示が容易であること
➂政権地を畿内に迅速に樹立可能なこと

大陸の覇権争いで湧き出る難民(※7)
体制を整える必要が喫緊の課題
刻々と大陸情報を入手
卑弥呼の弟が奈良盆地に避難民対策本部を設置
全国一斉に難民に食と耕作地が与えられる
開墾と稲作の奨励、
鋤取り土砂の排出で集約する命令(後の古墳)(※8)
全国一斉(※9)に同一方式で食の生産地が作くられた。
奈良(大湿地帯)には、8つの大古墳(※10)が作られる

東征後の邪馬台国
狗奴国との戦争
247年、倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した

卑弥呼の死
248年、高齢の卑弥呼は、狗奴国との争うのなか死亡す。葬儀は盛大で、戦中でもあり、高千穂に葬られたと思われる。卑弥呼の弟は、ヤマト箸墓に卑弥呼を記念し魂を葬った。

死後、壱与(イヨ)
卑弥呼の死後、九州では、新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。張政たちは檄をもっ壱与に教え諭した。
 
張政の役割邪馬台国の継続)
張政は、20年間在日後、263年、魏に帰国
邪馬台国の内乱を納め、その後、13歳の宗女を邪馬台国の「王」として、倭国の外交的安定性を維持した。ヤマト政権(卑弥呼の弟)と邪馬台国と壱与との連絡係を担った。266年、晋の武帝西晋の初代皇帝。 から禅譲を受けて中国をおよそ100年ぶりに統一した)に遣使、朝貢している。なお壱与の治世時期は安定していた。

卑弥呼の方針(ヤマト王権に引き継がれる)
①大王には姓がないこと。卑弥呼弟にも姓がない
古代のモンゴル族、満州族などアルタイ系言語の諸民族と同じで、より古い縄文の習俗を残している。
⓶東征軍で、従軍者の氏性と卑弥呼弟の上下命令関係が組織化する。

筆者(神谷昭説)
古事記及び日本書記での名前記述法は、どこからの由来か?不明です。卑弥呼は倭王「ひみこ」と単純です。

避難民対策本部から
ヤマト王権

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毛野を含む古墳時代の主な勢力
東京大学農学部

倭王・卑弥呼の功績は巨大

古墳時代は、大規模に流入する大陸の避難民を倭人となし、新田開発を行い、農耕民とする期間でした。

各地の、吉備をはじめとする瀬戸内や四国、出雲や丹後、但馬、敦賀などの山陰、琵琶湖の近江地方、太平洋側の土佐、東海、そして、大阪平野〜大和盆地の勢力など地域を超えた勢力が連合して、大和盆地東南部、三輪山麓に成立した連合政権が、初期ヤマト王権です。

3世紀後半までには南東北から南九州まで日本列島の広範囲に影響を及ぼしており前方後円墳体制に、当時の連合目的が見て取れます。

3割が原住民(縄文・弥生人59万人)が、大陸の三国覇権争いから生まれる大規模避難民(古墳通期で約450万人)を受入れ、衣食住を与えたのです。

倭王・卑弥呼の功績は巨大です。この卑弥呼に関する記述がいことで、古事記、日本書記は、倭国の正史ではないと、著者神谷昭は思っています。

流入避難民の統率

★倭王卑弥呼は、弟及び魏の長政に計らい東漢氏をもって統率した。

主な流民の出身地
①百済(くだら),新羅(しらぎ),任那(みまな)(加羅)などの朝鮮各地から来た人々である

⓶前漢以来朝鮮の楽浪郡や帯方郡に来ていた中国人の子孫で各地に分散していた漢・魏を源流とする大陸人である。


大規模移住民の成果(古墳)

奈良・古墳だらけ

国土交通省

ため池を持つ古墳

箸墓古墳
【筆者挿入】
古墳を墓と考えることでは、奈良盆地の謎は解けないと思います。

奈良盆地開墾証拠が古墳

死者は古墳完成後埋葬された、農業目的が始まりで、墓としての機能は後からだと思う。3世紀の後半の奈良盆地に大型前方後円墳の建設が集中した。副葬品のは、呪術的な・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行。各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪、馬埴輪が現れた。

奈良盆地の地形変化

6000年前

縄文時代

弥生時代

洪水対策

沼化から原野へ

奈良盆地誕生

水田稲作遺跡
稲作には最も適した土地が、
奈良盆地のような低湿地帯

馬飼育(生駒)
古代馬(小型)

海人は船に馬(古馬)を乗せて外洋を航海し、津(港)に着いた。川を遡上(そじょう)するのに馬を用いたからだ。馬は、川を遡上するためのエンジンの役目を担った。初期馬は、半島加羅族(平群氏が参軍した。

豪族の配置

政権の安全保障・立地
ヤマト王権の樹立

【著者見解】九州、邪馬台国で卑弥呼存命中に弟がヤマト事業成功
魏の長政の補佐を得、邪馬台国・壱与を支援す。
299年壱与死す

卑弥呼の出自

邪馬台国の位置的特性
南九州に強力な縄文人国あり画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: image-163.png

稲作は北九州に普及
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稲作は東進した
南には普及しなかった

邪馬台国は
縄文の特性を強く残した
宮崎・日向の国だった。

邪馬台国はSOV国でバイリンガル

宮崎・日向の国は縄文人国
隼人、蝦夷(佐伯)が住み着いていた。彼らは、動詞が最後にくる言語(SOV)系の使い手であった。大陸北方のモンゴル族や満州族につながる民族が、弥生時代以前からそこに住み着いていたのである。これは縄文人ということです

南方系縄文を融合
SOVではないポリネシア系言語諸族をも融合した。そして、アルタイ系縄文人が、邪馬台国を含む九州南部の実権を握っていた。

宮崎・高千穂
日向の高千穂という往来困難な辺境山岳地帯に本拠をおいて鉄壁の安全対策を行っていた。九州北部に流入した長江系漢人はSOV系であったが、漢人に縄文人文化が呑み込まれることはなかった。

自主独立の国・邪馬台国
王は姓を持たない。古代のモンゴル族、満州族などアルタイ系言語の諸民族と同じで、より古い縄文の文化習俗を残している。卑弥呼の神権政治により、倭国大乱(80年にわたる戦乱)を治め、魏王より倭王の称号を得、国際政治を行っていた。

高千穂町

高千穂渓谷

宮崎マップ

高千穂:天逆鉾

3:7時代

原住民(縄文・弥生人)3:避難民(朝鮮半島人+大陸人)7

第二派避難民時代

空白の4世紀

古墳の普及

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316西晋の崩壊


移住民受入れ
ヤマト勢力強化時代

人口約200万人

中原の混乱で人々の移動、
北九州への大規模なエリート流入
東アジア人が波状的に流入

ヤマト連合政権

1,大王家(卑弥呼弟)の誕生期

1-1、対外政策(魏・西晋王朝との友好)
卑弥呼の死後、大王は、邪馬台国の女王「壱与」を支え、「魏の長政」を補佐官とし、魏王朝の後援を得ながら、ヤマト連蔵政権を安定化させた。魏が西晋の権力譲渡後もこの関係は続いたと思われる。

Ⅰ-2、国内政策(従軍者への報償)

安全保障体制の確立

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奈良盆地

主要産軍者への恩賞(氏)

親衛担当:大伴氏
軍隊担当:物部氏
大王家と婚姻関係:葛城氏
大王家と婚姻関係:和珥氏
大王家の血縁者 :巨勢氏
氏族の管理と外交:蘇我氏
馬の管理(日向):平群氏
海人集団の長  :安曇氏
移住民総括帰化人:東漢氏
行政補佐官帰化人:秦氏
百済王族出身者:百済王氏
古墳等技師帰化人:土師氏「氏姓」の原型

大王との上下命令系の政治組織

3,4大地方豪族との関係(連合政権)

筑紫氏、出雲氏、吉備氏、上野氏こそ東征の功労者
大和と日向は大王家

ヤマト王権と豪族層が共に力をつけていった。豪族層の武力は国造軍(私兵)と呼ばれ倭軍を担った。前方後円墳が全国に広がった。

新田開発と移住民人口増階級の明確化、豪族への権力集中、私兵軍の強化
移住民の勢力拡大

国造軍とは

地方豪族は倭王権に服し、国造に任命され指定地域の支配権が認められた。加えて倭王権が中央豪族を派遣し国造に任命した場合もあった。国造は軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められており、従者や隷下の人民を武装させて軍を編成することができた。これを歴史学で国造軍と呼び、飛鳥時代まで続いた。(ウイキペディア出典)

大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵の復元された古墳時代の札甲(挂甲とも)と衝角付冑。ウイキペディア出典

国宝埴輪 挂甲武人
東京国立博物館所蔵)
ウイキペディア出典

大王」は、有力豪族と連合して『ヤマト(倭)王権』を成立させた。

大王の直属軍
物部は一族に多くの国造を持つ有力軍事氏族であった。また王権の直轄兵的な役割を果たした大伴氏も有力な軍事氏族で、活躍した。

大王の半島戦略

鉄の権利確保
(農機具と軍需品)

半島から鉄の輸入
鉄鉱石+砂鉄からの鉄生産は半島依存
製品生産は倭国内で行う

北部九州では、福岡県糸島市井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡、佐賀県唐津市の桜馬場(さくらのばば)遺跡など、昔の伊都国を中心に鍛冶技術が発展した。鉄器を一からつくる技術がなくとも、戦撃で破損し捨てられた鉄剣や、あるいはもっと小さな鉄クズを輸入・加工して、別の道具に仕立てることは広く行われた。多くの甕棺墓(かめかんぼ)から鉄器が出土している。

鉄器生産分布

4世紀後半以降
高句麗の南進

倭人社会に馬匹文化を導入させることになった。「鉄の確保」であった。水田稲作農耕が鉄の確保が不可欠。朝鮮半島からの「輸入」に頼るしかなかった。

半島からの鉄輸入ルートの確保
最重要課題

百済や加耶の諸国は、倭国を味方に引き入れようとし、鉄資源の確保という利害で一致。倭国がこれと結び、ともに高句麗と戦った。(好太王碑の碑文)

高句麗と戦う:

「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる(倭・高句麗戦争

半島南部(加羅)を軍事基地化
現地の移住民対策本部鉄の輸出地
倭国は、をを軍事基地化していた。権益を持っていた。中国南朝に倭王は、朝鮮半島に対する軍事指揮権の承認を求めている。
大王は、(武))は、「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭王」の肩書の承認を求め、百済を除いて承認を受けている。

百済との提携
倭国は、朝鮮半島に対して、鉄素材や軍事物資などを入手する必要上、政治的・軍事的な関与を志向した。4世紀末から5世紀初には、百済との同盟関係を構築して、新羅高句麗の軍勢と戦ったことが記録されている(好太王碑)。

百済国、倭国に鉄贈る

350年ごろ、中国の歴史書『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、中央集権国家として成立していたと見らる。

高句麗との絶え間ない戦い
371年、高句麗平壌城を陥落させた。平壌占領の翌年には百済の使者が初めて東晋に入朝した。同時期に倭国との通交も始まり、七支刀と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られた。

七支刀
東京国立博物館

石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝承される「七支刀」(しちしとう)は、左右に3つの枝刃が互い違いについた鉄製の剣で、その形状から武器ではなく祭事や儀式に用いられた儀刀あるいは呪刀と考えられています

百済の国家体制の軸
百済には多様な集団が関わるようになった。百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団倭系百済官僚)が登場し、また楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込み、これらを通じて百済は発展を遂げた。384年 東晋から百済に仏教伝来。

倭国と百済と新羅と高句麗の4つ巴の外交・軍事関係(半島の三国史記)
百済と高句麗が倭国も交えて長期に亘り戦いを続けていた。
391年、倭、百済と新羅破る。以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民とした
393年、倭、新羅王都を包囲
396年、高句麗、百済の城々を占領した。百済降伏。
397年、高句麗の圧力増大、百済阿莘王の太子腆支を倭国へ人質出し支援要請。
400年、倭、新羅首都包囲。高句麗王は新羅を助ける。倭、任那加羅を失う。
    倭と同盟を結ぶ安羅軍は新羅城を攻め落とした。
400年、高句麗は新羅へ出兵して倭軍を駆逐
402年、新羅も倭国に奈勿尼師今の子未斯欣を人質にだす
404年、倭の軍は突如帯方郡国境を超え侵攻した。
404年、高句麗、帯方に侵入した倭を撃退。
405年、倭の傘下で百済王即位する
407年、高句麗、百済へ出兵して6城を奪ったという。
427年、高句麗の長寿王は奪回した平壌へ遷都し朝鮮半島方面へ乗り出した。455年、以後、高句麗による百済への侵攻が繰り返された。
★458年 百済の蓋鹵王南朝宋から鎮東大将軍の爵号を受ける。
472年、百済は、新羅と結び、北魏にも高句麗攻撃を要請した
475年、高句麗、敗勢が決定的となった。

倭大王・二大国策

馬の飼育

国家政策:牧場を広げる
大量の馬匹と馬具を生産する必要がある。倭人たちは百済や加耶の援助を受け、列島各地に大規模な生産基地=牧を設置していった。生産技術を持った人々が、大量に半島から渡来、移住させられていった。

鉄の鉱石からの生産

国家政策:製鉄所を作る
倭の5王(大王と豪族たち)
421年の遣宋使を派遣など
高句麗との戦及び
国策の意図の説明

大王家の帰化人政策

中国大陸
439五胡十六国時代
南北朝時代『宋書』

三国志時代の避難民からエリートへ

三国志の時代は、中国大陸4000万人の人口が1,000万人に減少する時代であった。大王家は、避難民を、ほぼ、全国へ拡散して農民化させた。

中央及び地方行政事務官へ登用
①中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになる。

⓶南朝通好に伴って中国から直接に渡来する人が増える。

➂北朝系統の文化を持った高句麗人などもそれに加わるようになった。

古い帰化人を圧倒し,中央集権的な国家制度の展開に目覚ましい活躍をした。
①初期仏教史上に名高い鞍作(くらつくり)氏の司馬達等(しばたつと)とその孫の止利(とり)仏師,

⓶遣隋留学生として中国に赴き,帰国して大化改新に参画した高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(そうみん)などはその代表的な例である。

官僚機構の80%が帰化人で占められていた。

卑弥呼系大王家に異変?

直属豪族の滅亡

物部氏とは


初期より、大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。

蘇我氏とは

王権の職業奴属民としての役割を担っていた氏族の管理や国外との外交に対する権益を持っていたとみられ、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。

また、蘇我氏は葛城氏の政治力や経済力、対朝鮮の外交ポストや渡来人との関係(4世紀から5世紀にかけて、葛城には渡来人が居住しており製鉄作業に従事していた)や、大王家との婚姻関係などを継承したと考えられる

物部氏討伐

物部討伐の経緯
585年、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。

587年、馬子は、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。

討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した

PS,聖徳太子とは(1999年大山誠一説)
数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする説。【著者挿入物部氏討伐は百済系実力者が首謀者ではないのか?

PS,秦 河勝(はた の かわかつ)は、秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされるが秦国から百済を経由して日本列島の倭国へ帰化した有力氏族である。弓月君の直系子孫にあたる。【著者挿入】秦氏は、百済王族の応援団でははないのか?

蘇我氏討伐

645年、乙巳の変は、中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新し大化の改新と呼ばれる改革を断行した。

日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになった。中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させ、皇極天皇の弟を即位させた(孝徳天皇)。その孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして日本で初めての元号大化を定めた。(ウイキペディア出典)

乙巳の変
クーデター

7世紀半ば、人質として来日していた百済の王子・豊璋は、藤原鎌足と同一人物ではないか。気鋭の歴史作家が、豊璋と藤原鎌足の正体を明らかにし、古代史最大の謎を解く(関裕二説)

中臣 鎌足
(藤原 鎌足)

唐の覇権と隣国栄枯

(618年 - 907年)
唐は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国に、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。 ウィキペディア

644年、唐の第一次高句麗出兵
Wikipedia

唐代の騎兵

水軍

●660年
百済滅亡


661年

第2次唐の高句麗出兵。

●663年
 白村江の戦い


668年

 唐の高句麗出兵


●668年

高句麗滅亡


670年 
唐・新羅の自立戦争

新羅は戦争中も
唐との朝貢冊封関係を維持
唐の年号を使い続けていた。

672年
倭国権力闘争
壬申の乱

日本列島は3:7時代
敗者
高句麗・百済王権

日本列島の王権

半島の勝者
新羅王権
四つ巴の権力闘争


676年
唐が朝鮮半島から撤退


673年
古事記編纂
権力の正当性創作

712年
古事記完成

720年
ヤマト政権から百済政権へ
藤原不比等没
日本書記全30巻刊行
天皇家の記録
様々な見解在り

724(東大寺大仏)
734柿本人麻呂没
759〜万葉集
794平安平安京

再記述
経過詳細に続

唐の高句麗出兵

644年~668年高句麗滅亡まで

①僧侶である玄奘の助言

玄宗

唐朝は、高句麗の脅威を感じた。玄奘は仏教を伝えるために高句麗に赴いた。彼は、高句麗の国力が強大であることにビックリした。唐朝に対して高句麗に対する軍事的威嚇を行うことを提言した。



高句麗の国力源泉 (馬と鉄鉱石)

世界的に有名な高句麗時代の古墳壁画(舞踊塚狩猟図)

軍馬と鉄鉱石を確保していたこと。高句麗は、朝鮮半島北部に位置しており、鉄鉱石や馬を得ることができる地域が近くあった。鉄鉱石を採掘し、製鉄技術を発展させ、優れた鉄器を生産していた。また、馬の繁殖に適しており、騎馬軍は強力であった。

➂強力な中央集権制と文化
優れた軍事力を持ち、農業や商業を発展させ、豊かな文化を築いていた。また、高句麗は、遊牧民族の鮮卑族の文化や技術を取り入れ発展した。さらに、高句麗は仏教や儒教を受容していた。

④高句麗の言語文法はSOV型
高句麗語は主語・目的語・述語の順序であるSOV型であった。高句麗語は漢字を借用していた。漢字表記が用いられていた。現在の日本語に近いかもしれない。日本列島に縄文期に移住してきたアルタイ語系言語民族かもしれない。668年、滅亡後、列島へ、移住した人々はかなりの人数と思われる。

唐と新羅連合軍

唐と新羅の軍事同盟(対高句麗+百済戦略)
660年に成立した新羅との軍事協力としての同盟関係である。始まりは、642年、高句麗と百済の連合軍が新羅を攻撃し、新羅の西部と北部の領土を奪った。648年、武烈王を唐の太宗に遣わし、援助の取付に成功した。

新羅、唐の属国化政策
唐と新羅はともに漢字文化圏に属しており、仏教が盛んであった。また、中央集権的な政治制度で、共通性があった。新羅は、649年に唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、650年に独自の年号を廃して唐の年号を用いて、唐の完全な属国となり、651年に官制も唐制に倣ったものに切り替えた。

唐の対百済政策

唐の不満
唐は、朝鮮半島南部の貿易ルート及び金、銀、銅、鉄などの鉱物資源の採掘を希望していた。しかし、百済は唐に対して反抗的だった。百済は唐との同盟関係を結びながらも、独自の政策を進めたため、唐は不満を抱いていた。

百済の地政学的位置
東アジア地域における
唐の政治・軍事的優位性を確保

唐は、百済との同盟関係によって、周辺諸国に対して政治的影響力を拡大することができた。百済における政治的権威を手に入れることで、自らの権威を高めることができた。しかし、百済は、同盟を無視した。

百済の同盟違反
正式には「高句麗遺民討伐」です。唐は百済を通じて高句麗遺民(高句麗の残党)を百済はかくまった。倭国へ逃がした。討伐するために唐は、百済へ侵攻することとなりました。

百済・倭国に支援要請

鉄資源不足問題で協力
倭国や百済は、鉄鉱石を唐や中国の他の地域から鉄を輸入していた。鉄鉱石は国内には少なく、鉄鉱石を産出する地域は朝鮮半島南部に限られていた。

文化的な類似性と盛んな人的交流
百済・倭国は、仏教や神道が混在していたこと、両国とも地方的な豪族勢力が強かったこと、倭国から百済に移住した人々は多くいたこと、中には百済王族と縁戚関係を持つ者もいあたこと、などで人的交流が盛んであった。

鮮半島南部の
海上貿易ルートを支配

百済、唐に対抗するために
倭国に援軍要請

倭国は、百済に対する友好的な外交政策を維持するために、援軍を派遣した。倭国は、当時、朝鮮半島南部の海上貿易ルートを支配しており、朝鮮半島においても勢力を拡大することを狙っていた。

百済VS新羅、開戦

642年は、百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える事に成功した。この時落城したのは主に伽耶地方の城であった。『三国史記』「新羅本紀」にあり、百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成する。

643年、百済高句麗と和睦

新羅、唐へ援軍要請

百済は、高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した。百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返した。

唐・新羅連合軍

660年に水陸合わせ13万
唐・新羅の同盟)。

唐は、高句麗征討においてその同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、遂に660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ向けて差し向けた。

660年、百済、滅亡

660年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始した。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、有効な戦略を打ち立てることはできなかった。個別の戦闘では奮闘した例もあったものの、7月には王都泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏した。

倭国での百済復興運動

百済滅亡を知った倭国では、朝鮮半島からの文物の導入ルートの途絶の懸念や、百済への勢力拡張などの目論見から、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。

倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵した。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。

これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させると、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させ、豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降った。こうして百済は完全に滅亡した。

新羅半島支配
唐の支配に反発した新羅は、建前上は唐の臣下という立ち位置を維持しつつ、、百済・高句麗の故地は新羅の支配下に入った。

百済・高句麗の亡命者

663年白村江の戦いの後、
多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏を中心として倭国に根付いていった。そのとき百済の貴族・官人以下おそらく4000~5000人以上の人々が日本に亡命してきた。

5年後に高句麗滅亡後
そのときにも高句麗王族を含むかなり多数の亡命者があった。亡命者群が,古代帰化人の中では集団をなして渡来した最大のものだったと思われる。遺民の一部はへ。『続日本紀』武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市飯能市高麗神社日高市

初代日本国天皇



日本国天皇、初代天武天皇

645年6月12日の乙巳の変
国政改革・大化年間(645年 - 650年)の改革の実行者。天皇中心の政治へと移り変わった。

日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになった。

天武大王から日本国で「天皇」と称号するとした。

中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させ、皇極天皇の弟を即位させた(孝徳天皇)。その孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして日本で初めての元号大化を定めた。

以降の天皇
1-645孝徳天皇36
2-655斉明天皇37(女性)
3ー661天智天皇38
・・672壬申の乱
4-671弘文天皇39
5-673天武天皇40・・・天武から天皇の称号を使う
6-686持統天皇41
7-697文武天皇42
8-707元明天皇43
9-710奈良平城京
・・712古事記
10ー715元正天皇44
11ー724聖武天皇45
・・720日本書記全30巻刊行
12ー749孝謙天皇46
13ー758淳仁天皇47
14ー764称徳天皇48
15ー770光仁天皇49
16ー781桓武天皇50

天皇陛下お誕生日に際し

会見年月日:平成13年12月18日

宮殿 石橋の間

記者会見をなさる天皇陛下
(写真:宮内庁)

問3 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年,日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。

天皇陛下

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております


著者(神谷昭)本研究は、古事記及び日本書記に一切依存せず、客観的歴史資料と政治学、経済学の知見から推論したものです。神谷昭史観です。