縄文・弥生・古墳期とSOV言語

古代人口の地政学的、政治・経済学(1~5)

日本人とは・再検証

東アジア政争と難民史

古代人口の推移

①縄文時代には約10万人∼約26万 人(※1)であり、弥生時代には約60万人(※2)であった。 古墳時代(※3)奈良時 代には約450万人、平安時代(900年)には約550万 人となり、慶長時代(1600年)には約1,220万人とな った。
(ウイキペディア出典)

(※部)筆者神谷昭挿入

(※1)寒冷化で縄文晩期は7万6千人まで減少した。

(※2)弥生期になり、春秋戦国の大陸乱世(孔子、孟子、孫氏など諸子百家時代を通して)から漢族と揚子江南の稲作民らが、海を越え列島へと流入(避難民)してきた。人口は59万人まで増加した。

(※3)弥生晩期から古墳期には、再び三国史で語られる中原の乱が大陸で100年続き、朝鮮半島経由で大規模な難民流入が起こった。大陸人口は4,000万人から1,000万人に減少した。日本列島には、支配層、エリート層、一般民層を含め波状的に食と生活の場を求め、難民流入が継続的に起こった。避難民人口はピーグで450万人に達した。古墳時代と言うより「巨大難民津波時代」と名付ける方が現実を言い当てていると思う。

初期ヤマト政権の人口構成は、縄文人1割、弥生人2割、古墳人7割で、9割が短期間で大陸の大乱で直接、半島経由で避難してきた民であった。

縄文後期の人口
約76,000人

東京大学の研究グループが
現代の日本人男性のDNA解析

弥生時代の人口
約590,000人

歴史人口学の鬼頭宏(2007)日本の人口の超長期推移をグラフ(出典)

本研究のテーマ


縄文人の初期政権から百済政権への移行

縄文期&卑弥呼&藤原不比等まで

【神谷昭説】
1,ヤマト民は、SOV型言語と母音類似語彙で、縄文人は弥生期、古墳期の移住民と言葉が通じ合っていた。

2,魏志倭人伝に記載の邪馬台国は、宮崎平野にあって縄文系の強い国であったが、筑紫・熊本の投馬国とも連携、伊那国を前線司令塔として九州30か国を統合していた。南の隼人縄文人の国とは、対立関係にあった。

3,卑弥呼は日向、高千穂に葬られるが、後継の壱与が、卑弥呼の弟の補佐で、国をまとめた。

4,北九州へ、大陸と半島から「大陸戦乱の結果、大量に波状的に押し寄せる避難民」を、邪馬台国と同盟する国々を組織化し、武装連合国家化した。そして、移住民のリーダー達の支援を得て、東の倭種国(出雲、吉備,讃岐、越前)に避難民をふりわけつつ、交戦・連携して、大稲作盆地である機内の大耕作地の確保に向かうこととなった。

5,邪馬台国は、馬の飼育を行い軍馬とし、鉄器は投馬国で生産、兵は外来の軍経験者を束ね、参謀に移住民のリーダー核を当て、急速な軍事化を行った。

6,AD240年、魏の皇帝より親魏倭王の金印紫綬の倭王の印綬を得、卑弥呼は倭王の称号を得、「卑弥呼の弟」を総大将に任命した。準備万端であった東征の命令を発した。全国統一の実施である。

7,大阪平野や奈良盆地で開墾を手掛けていた出雲系縄文系の民や、先住の弥生人たちとは、極力争わず、政権運営を邪馬台国に委ねてもらった。当然、当時の各地(敦賀、吉備、讃岐、土佐など)の「実力者たち」には、軍事行動の目的を話し、協力を得た。

8,人口が10倍に膨れ上がる「半島からの避難民対策」に協力を得た。避難民を「農民化して各地へ分散移住」させることに成功しヤマトに旗をたてた。

9,九州情勢は不穏であった。邪馬台国では卑弥呼が政権運営するも対立関係にあった南の狗奴国との争い半ばで彼女は高齢でもあり他界する。

10、後継に、男の王を建てるも内紛となり、「卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった張政たちは檄をもって壱与に教え諭した魏志倭人伝)以後、20年間、張政は倭国にとどまった。

11、卑弥呼の弟(東征の総大将)は張政を参謀とし、内外の難関を処理、従軍し協力した豪族を束ね、大陸や半島からの入植者の智慧や技術を得て、奈良大和盆地にヤマト政権を樹立し、全国統一を果たした。(「卑弥呼、ヤマト統一」で詳細記述)

12,その後、朝鮮半島の各国とのいくつかの交戦を交え、古墳期を乗り越えてゆく。

13,前方後円墳は、農地確保からでる排出土石を集めた場所で、整備後、その地のリーダーの墓とした。一気に全国に新田開発の波が起こった。古墳が次から次へとつくられていった。ここに「水穂の国・日本」が生まれた。

以上を後述で証明しましょう。
日本史の不可解性
すでに漢字があり、歴史記録者がおり、それらの書き物をすべて焼き、当時を「「神話化」し「神社化」して不明瞭にしてきた者たちがおった、それ故に、日本人のはじまりが不明瞭で、日本人の進む方向も不明瞭にしてしまっている。

私は、出来るだけ、既住者59万人の8倍近い400万人もの難民流入を受け入れ、民族絶滅戦争もなく、和して、「日本人を創り出した」古代日本人に敬意を表するとともに、「史実」に即して歴史を見直してみたいと思ています。目的は、未来の日本人の参考になればと思います。

4種類の日本流入

言語から読み解く
日本人ルート

日本列島への渡来人は、①朝鮮半島人か、⓶半島で留まり文法を獲得したか、➂縄文人と同じ「SOV型文法」の民族であったか、④語彙発音で共通性があり、同化したか、の4種と考えられます。

日本語族と朝鮮族の関係はSOV型
共にアルタイ語族の一員です。SOV文法構造での高い類似性、基礎語彙については同系統の類似性はありません。ただし、日本成立には、半島がSOV型であったことは、偶然にしろ、日本にとっての、必要条件でした。

西遼河流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民の言葉が日本語や韓国語の起源になった。他からきていた北からのアルタイ系ツングースの縄文人のSOVと衝突せずに雑穀農耕民が渡来したと考えられる。

異なる文法に代えるのは大変です
語彙を覚えるだけなら容易です
日本は支配されていません
難民受け入れ列島でした
4種の民は統合しました

渡来人を4種に区分し歴史を観察してみます。

縄文時代の流入

(BC14,000~BC1000)

長江文明
紀元前14000年ごろから
稲作がこの地域で始まる

黄河文明
紀元前7000年紀元前5000年
畑作中心

縄文の終わりは
BC1000年を採用する

東アジア人集団から孤立し
独自の進化をとげた集団


日本列島への縄文人の移住
BC14,000年頃~日本列島に住み着いた。文化圏も北海道から沖縄本島と広い。縄文古墳の分布から確認できました。



DNA解析では東アジア人の遺伝子で北、西、南から移住してきたと判断されます。縄文人は東ユーラシアの集団と遺伝的に一番近い。


第一段階はユーラシア大陸各地から狩猟採集民が渡来した。下図の1~6であろう。

縄文人は、古い時期に孤立した
独自の集団であるります。

北、西、南から移住

第二段階は縄文後晩期の渡来人の波。大陸沿岸の漁業を中心とした「海の民」が日本列島に移住した。北部と南部にはほとんど影響がなかった。

東アジアで孤立した縄文人
北と南へ別れて移動

南に別れた縄文人は
海洋民の特長を持って北上した




縄文人の文法SOV


縄文人は
文字を持っていなかった


【神谷昭の問題意識】
縄文人が用いていた
SOV型言語の日本語は
近い将来
消滅するのではないか?
日本語族は
消滅の危機を
どう乗り越えてゆくのか?

日本語族の成り立ちを
探索します

アルタイ語族の分布
ウイキペディア出典



縄文人の話し言葉の文法はSOV

【神谷昭仮説】
縄文人はアルタイ語族と接触、移動中に、SOV型文法(※1)を獲得したのでしょう。他言語にはSVO型文法(※2)もあります。何が、原因で二種あるかは論争中ですが、神谷昭仮説では、SOV語族は環境依存型、SVO語族は民族コミュニケーション依存型と分類と神谷しています(後述文法起源説)。


※1)SOVとは
わたしは(主語)あなたを(述語)愛しています(動詞)です。始めは世界の45%のシェアでした。

アルタイ語族マップ

アルタ語系の特長
共通基礎語彙がまったくないので、語彙を最初に持ち込んだ民族は、その後入った民族の違う語彙を使う。文法は変わらなかったが語彙は新しい民族のものがどんどん取り込まれるたことにないます。

日本語の特長
語彙のよいものだけ取り込む。これは語彙がすべて外来語でできたということになってしまう。最初に来た民族の語彙は飲み込まれ失われたたということになる。日本語はそういうできかたをしています。

世界を覆うSVO言語族
※2)SVOとは、I(主語) LOVE(動詞) YOU’(述語)です。始めは世界で55%の民族が使用していました。英語、フランス語、スペイン語、中国などです。植民地戦争から、グローバル化、今日では世界シェア80%以上、ネット環境では100%にも達しています。


大陸から流入

東北系はSOV型

検証
金采洙[高麗大学]
2010/11/12
講演文参照


BC3000年頃の
中国大陸内
民族移動

抜粋
黄河下流の東夷族は、
北方のアルタイ語の語順と等しいSOV型の言語を取っているし、南蛮族の楚国の民族も西方のチベット語の語順と等しいSOV型の言語を取っていた。東アジアの西部地域から使われてきた言語は、基本的にSVO型の統辞構造を取る華夏族の言語と、SOV型の統辞構造を取る夷族の言語に分れていた。

長江文明とSOV族
BC3000年頃から西戎族の先祖に当たる羌人が暮していた。また黄河中流地域には、その地域の北方出身のアルタイ族などが暮していた。これらの夷族たちは黄帝族ないし華夏族が黄河の上中流地域に到着すると、その地域を出発して、長江上中流地域に移動し、そこの原住民たちと混合し、長江文明を興していくことになり、その文明を背景にして楚などのような国々が成立して現れたのだ。彼らは現在もSOV型の統辞構造を取る自分たちの固有の言葉を使用していっている。




南方から流入

マレー系諸族
SOV

ビルマ系諸族とマレー系諸族はSOV型が多い。
マレー・ポリネシア語派(マレー・ポリネシアごは)またはマラヨ・ポリネシア語派は、オーストロネシア語族の大部分の言語を含む語派である。またオーストロネシア語族全体をマレー・ポリネシア語族と呼ぶことも多い。オーストロネシア語族から台湾諸語タオ族以外の多くの台湾原住民の言語)を除いた言語をまとめてマレー・ポリネシア語派と呼んでいる。(ウイキペディア出典)

ポリネシアン語族
母音類似性

南方からSOVでない民族も含め、
日本語の語彙を運んできた
江南諸族(海族)の基礎語彙は日本語基礎語彙と同じ子音で始まる単語がかなり認められる。また、江南系諸族と日本語はなぜか単語にオーストロネシア的な母音膠着単語も混じっている。(ウイキペディア出典)

海族系縄文人と方言づくり
海を越えてきた人々は、SOV文法に「母音」語彙を乗せて、多数の方言を生み出しながら、日本列島内に拡散していった。九州地方の彼らの生活風景は「魏志倭人伝」に記録されている。

オーストロネシア語族
(オーストロネシアごぞく)は、台湾から東南アジア島嶼部太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。アウストロネシア語族とも。日本語では南島語族とも訳される。台湾原住民諸語が言語学的にもっとも古い形を保っているとされるが確実ではなく台湾原住民諸語フィリピンから起源したという主張もある。かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾原住民諸語との類縁性が証明され、オーストロネシア語族と呼ぶようになった(ウイキペディア出典)


縄文人の見分け方(入れ墨)

魏志倭人伝記述

南に
狗奴(コウド)国
男子が王
女王には属していない

男子は
おとな、子供の区別無く、
みな顔と体に入れ墨
魚や蛤を捕ることを好み

夏后の少康の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を押さえる為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある(魏志倭人伝主典)

長寿だよ

魏志倭人伝より抜粋

大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。

その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴訟も少ない。


弥生時代の流入

(BC1000~AD3世紀中頃)

中国大陸・難民

稲作民はSOV型



何処から渡来したか

長江からの避難民
ボートピープル

稲作は3000年前に長江より伝わったが、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、長江域の稲作民が半島へ、あるいは船で列島へ避難してきた。

春秋戦国時代

BC722北イスラエル滅亡
失われた10部族

何故、海を渡るリスクを負ってまで
渡来したか
中国情勢の理解

BC1600年頃の中国初代王朝
黄河中下流域には都市国家が発達し、最初にで、河南省にが登場した。 殷の政治は、占いで神に伺いをたてる神権政治だった。(著者挿入:卑弥呼の政治も同じ)亀の亀裂は漢字の原型甲骨文字である。青銅器が使われていた。

BC1100年頃、軍師太公望
牧野の戦いで破って王朝を開いた。周は諸侯に領土(封)を与える代わりに王朝への忠誠をもとめる封建制度を取り入れた。

BC770乱世春秋時代と避難民
諸侯が争う乱世春秋時代となった。斉の桓公、晉の文公、楚の荘王、呉の夫差、越の勾践で春秋五覇と呼ばれる。南の楚、呉、越の住民は避難民となり移動した。

追記)春秋末期から戦国時代にかけて、多くの思想家が新しい思想を生みだした。これを諸子百家という。

孔子周の礼制を基に儒教としてまとめた。
「仁」道徳、「礼」表現、言行録が『論語』。
「性善説」孟子「性悪説」荀子が後継者。
墨子全く差別がない博愛主義(兼愛)を説いた。どんな戦争にも反対する絶対平和主義。
老子
荘子
「無為自然」を基本とし、人為を嫌う思想。
【胡蝶の夢】荘子が夢の中で蝶になり、空を舞って楽しんでいると目が覚める。自分が夢を見て蝶になったのか、蝶が夢を見て自分になっているのか、どちらか分からないという話。
孫子戦争に勝つための戦術や戦争論、政治論を説いた。

末裔はSOV型


長江流域の
南はSOV型文法

イ(ロロ)族
ロロ・ビルマ語
呉・越-・楚人の末裔

イ族と出会う幸運
精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。ピモの伝える歌に死後の魂が祖先のいた地へ戻る為の経路を表しているものがあり、それを遡ると長江上流へと行き着くため長江文明(※)を築いた集団の末裔とする説も存在している。

(ジャポニカ米)の原産が長江中流域
初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。

イ族の祖先
は元来涼山には定住しておらず、ピモと呼ばれる祭祀を務める者が死者を弔う際に唄を歌うが、これは魂が先祖の居た地へ戻る道程を表しており、唄われている地名や地理的特徴を遡ると長江周辺へと帰結する、この事から太古は長江流域に住んでいたが漢民族の侵入によって散り散りになりその末裔が現在の涼山へたどり着いたとされる。

弥生に残る風習
その古い成り立ちから文化は古代に多く見られる儀式が主体で、家畜や民族の安泰を祈願し木で組んだ門を家畜に潜らせ魔を祓うものや、鶏を処しその結果で占いをするという日本の弥生初期に通ずるアニミズムが残っている

越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)とは(ウイキペディア出典)
春秋時代中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越はなど長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた

楚の成立に関しては、
漢民族とは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説がある、さまざまな仮説がある。現代の遺伝子調査では長江以南である中国南部のの遺伝子は中国北部の遺伝子と相違する。ミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されている


秦の覇権と難民

半島でSOV転換

BC586バビロンの捕囚
第2神殿を建設した
BC473呉が滅び
BC403戦国時代
BC334越が滅ぶ
BC221
BC223楚、秦に敗れる

万里の長城の建設

弥生人のDNA解析

DNA解析の結果
楚系(O1a)が1.6%、
越系(O2a)が1.4%、
呉系(O2b)が28.5%、
黄河系(O3)が19%で全体の半分を占めます。


■BC800年からBC200年
江南人や漢人が波状的に大挙して
日本列島に流入
国が戦乱で敗れ、呉人、越人、楚人が遼東半島に逃避する。

■長城建設から逃れ
楚人、越人を遼東半島に逃避する。遼東半島は後の高句麗領域。
①楚人は又、南の馬韓(後の新羅)に逃げ、弁辰と表された。
⓶越人は、辰韓となる。
中国の移住民は
秦人(しんじん)と呼ばれた。

3世紀末の半島

5世紀末の半島図

図(明治大学 金任仲先生の講座「古代日本の朝鮮渡来文化」全7回の最終回。テーマは「伽耶の滅亡」)より出典


筆者(神谷昭)は、この朝鮮半島の勢力図こそ、大和政権の成立の経緯を知る手掛かりと思っています。日本には、当時文字がなく、記録がなく、6世紀に文字伝来後も記録がなく、半島を経由して、大陸人やその後の、半島人の渡来によって日本人が生まれた経緯が「8世紀に神話化」されてしまったために、始まりが、不明になっています。対外関係を明らかにして、日本のはじまりを明らかにしていきたいと思っています。

古墳時代の流入

(AD3世紀中~7世紀)
古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。大陸からの移住、新技術持って渡来人の大規模な移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、古墳時代は3世紀後半~7世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたのです。

中国・半島・倭国大乱

弥生晩期
AD1世紀~2世紀
30イエス十字架の刑(12使徒)
68ユダヤ人の反乱(離散)
135ユダヤ人追放(離散)
後漢(25~220)

57後漢光武帝「漢委奴国王」印
・・邪馬壱国は帰化人の東漢氏の支援を得ていたと思われる
後漢書』朝鮮半島
・秦の遺民保護(2~4c)
・・辰韓伝馬韓人は定住(養蚕)
・・弁辰(弁韓)

220~280三国時代(中国)

蜀漢、三国の争い

238魏曹叡帝「金印紫綬王号」卑弥呼(魏志倭人伝)
248ヒミコ死す
248壱与13歳で女王
262卑弥呼弟補佐
263張政が魏に帰国
270百済より最新技術導入+馬)


邪馬台国、九州諸国の軍事化進む

鉄器の生産
九州が軍事化

馬の飼育(軍馬)
宮崎(日向)ではじまる

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■東漢氏帰化人集団。漢人(半島)系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。東漢氏は集団の総称とされる。
■弓月君一族はに朝鮮半島の百済から百二十県の人を率い帰化したとされる。 弓月君一族は八幡神社稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めた。(ウイキペディア出典)
299壱与死す
300後継者(事代主


200万人~400万人の大移動

西晋の滅亡(316年)

西晋は、司馬炎によって建てられた中国王朝265年 - 316年)。三国時代を完全に終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を約100年振りに再統一した。(ウイキペディア出典)
五胡十六国(439年まで)当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。西晋八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。国内は大騒乱となる。

ネストリウス派(景教
公会議で異端とされサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命し、7世紀ごろには中央アジアモンゴル中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。
ウイキペディア出典
追記:日本への影響も議論されているが、当時の帰化人との関係は不透明。
後に、遣唐使となった「空海」及び日本仏教に影響を与えたともいわれる。著者も同意見である。

大陸からの大移住民
中国・半島・倭国の大乱時代

中国、中原での戦いで人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。

弥生時と縄文人合わせて59万人の列島へ200万~400万人の避難民が移住でやってきた。大規模民族移動が日本へ向けて起こったのです。

帰化人のリーダー

西文氏の王仁(わに)、秦氏弓月君東漢氏の阿知使主などです。

三種混合民族となる

日本人70%大陸系移民者


半島国と倭国の交戦(三国史記)

391年、倭軍、百済と新羅を破る。百済と新羅を倭の臣民とする
393年、倭新羅王都を包囲。
397年、倭百済と国交樹立。百済の阿莘王の王子腆支を人質
399年、高句麗と離反
400年、倭が新羅王都を攻撃高句麗+新羅連合軍、倭軍を任那加羅の従抜城撤退、(ウイキペディア出典)

倭の指揮官は誰か?
倭の5王、はとは?
邪馬台国の時代から百五十年ほどあとの五世紀、中国南部を統治した宋の時代についての史書「宋書」には、日本の王の使者が、皇帝への貢ぎ物をもって、宋王朝に来訪したと記録されている。

他の4王も150年で権力基盤を作ったていた。
当然、耕作地となる平野、湖の干上がり地を背景としていたと思われる。

耕作地

耕作地

耕作地に限定すれば湖が干上がって原野となり水田適地となった「奈良盆地」が権力中枢の適格地です。後に大和政権が誕生する地です。

耕作地の支配構造
渡来人が豪族化と神谷は考えています
田んぼの生産力が上がり、食糧が安定して供給されるようになると、社会が発達して各地に豪族が生まれました。中国や半島からの移民者のリーダーが豪族となったと思います。

古墳時代の水田に牛の足跡
家畜を利用した農作業が始まり、それにともなって馬鍬(まぐわ・マンガ)や中国の華北地方の(すき=カラスキ、長床犂)も伝えられたようです。また、九州北部を中心に鉄製の穂摘具(ほづみぐ)や鉄鎌もあったようです。

洪水の驚異・灌漑(ため池)・残土古墳
稲作民の脅威となったのが洪水です。お米が実った田んぼで洪水が起こると、その後の1年間、食糧が不足します。そこで豪族たちは鉄器を活用して、灌漑用の溜め池を掘らせ水路の整備も広範囲に行いました。そうして、川からずいぶん離れた平野や盆地にまで、田んぼが作られるようになったのです。後に豪族たちはこの土木技術を応用して、古墳を作ります。

邪馬台国・九州勢力の出兵
移住民リーダーとの協力

移住者間でいくつかの争いはあってたでしょう。殊に、奈良盆地は、渡来人間で権力争いが最も起こりやすい地域で、この地域の渡来人間の覇権争いを制圧する目的で、縄文+弥生+古墳の三種結合の邪馬台国を中心とした九州勢力が、奈良へ向かって、調停・出兵したと推察します。

5世紀(宋書)
402年、新羅も倭国に奈勿尼師今の子未斯欣を人質に出す。
404年、高句麗領帯方界まで倭が攻め込む。
405年、倭の傘下で百済王即位する。

■倭軍事装備(軍馬中心)
朝鮮半島に対する影響力は強大。なお三国史記では、この時期の加羅は倭国の軍事生産地と化していた。

■倭の5王、
は(家)「」と遣使の往来。
421年、遣宋使、前年、高句麗王・百済王、倭王は昇進せず。


卑弥呼の死後、倭国大乱とは
九州から機内への移住民調整の大軍事行動が始まります

著者(神谷昭)は、古事記や日本書記の記述にかかわらず、各豪族の氏素性にとらわれず、九州(三結合で縄文覇者)が、最新軍備で馬に乗り、又、海の民を引き連れ、同系統の出雲族の協力を得て、大陸からの大移住民の住居と農地調整を行いながら、畿内政権を短期間で打ち立てたと考えます。飢えた移住民に住まいと食を与えることが先住民のリーダーの使命だったと考えます。

前方後円墳はその軍事行動の進展の証
3世紀も三分の二(邪馬台国の後半期)を過ぎた頃から奈良県桜井市を中心とした地域にそれまでになかった規模の前方後円墳が次々と造られていきます。王国を形成できるほどの「集約的な食料生産と複雑な社会の出現」と人口の増加が始まったことが解ります。「国家の段階にまで達した」のです。

箸墓古墳

古墳群

帰化人の考察1

日本側の文書記録が7~8世紀の「古事記、日本書記」となるので、中国側の歴史経過及びウイッキペディ等を参考に記述しています。再記述になりますが帰化人についてのまとめです。

初期の帰化人

エリート帰化人
大陸とのあいだの人間の往来は,弥生時代以前からもつねにあったにちがいないが,それが急に盛んになったのは,4世紀末から5世紀初頭にかけての時期と思われる。帰化系氏族の中でも最も歴史が古いと思われる
西文(かわちのふみ)氏の王仁(わに)、秦(はた)氏の弓月君(ゆつきのきみ)、東漢(やまとのあや)氏の阿知使主(あちのおみ)などである。

一般庶民や戦争の捕虜など
彼らがどこに居住地域を与えられたか、得たかは、正確なデータがないが、弥生期、60万人の列島人口が200万から400万人に急増したのであるから、日本全域と考えられる。中小の氏族を形成し,各種の学芸・技術によって職をえたと思われる。

文筆を専門とする諸氏
彼らはみな史(ふひと)の姓(かばね)を持ち,いわゆる史部流(ふひとべりゆう)の文章を駆使して記録,徴税,出納,外交その他の業務に携わった。

文字の使用は行政技術と各種の文化を飛躍的に発達させることになったが,それらの活動は6世紀ころまではほとんど帰化人たちの独占するところであった。そのほか大陸系の進んだ各種の生産技術なども,初めはみな帰化人の専業で,その数が増してくると,東漢氏がそれらのかなりの部分を統率した。

初期の帰化人の出自
①百済(くだら),新羅(しらぎ),任那(みまな)(加羅)などの朝鮮各地から来た人々である。
⓶前漢以来朝鮮の楽浪郡や帯方郡に来ていた中国人の子孫で各地に分散していた漢・魏を源流とする大陸文化だったとみられる。

後期の帰化人

5世紀後半
新しい帰化人たちは新漢人
①中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人などが渡来するようになり
⓶〈倭の五王〉の南朝通好に伴って中国から直接に渡来する人,
➂6世紀中ごろ以後になると高句麗(こうくり)との関係が好転したために,北朝系統の文化を持った高句麗人などもそれに加わるようになった。

古い帰化人を圧倒し,蘇我氏の時代から大化改新の前後にかけて,中央集権的な国家制度の発達と貴族的な飛鳥文化の展開のために目覚ましい活躍をしたといわれる。

①初期仏教史上に名高い鞍作(くらつくり)氏の司馬達等(しばたつと)とその孫の止利(とり)仏師
⓶遣隋留学生として中国に赴き,帰国して大化改新に参画した高向玄理(たかむくのくろまろ),僧旻(そうみん)などはその代表的な例である。

AIへの質問と答え
1)帰化人以降の歴史記録が何故残っていないのか?

  1. 時間の経過: 古代の文書は、自然災害や火災などの災害によって文書が破壊されることもありました。
  2. 戦乱や政治的な変動:特に飛鳥時代や奈良時代には、政権の交代や政治体制の変化が激しく、政治的な意図によって文書が隠蔽されたり、破棄されたりすることもあったとされています。
  3. 文献焼失の風習: 古代の日本には、特定の時期に文献を焼却する風習があったとされています。経典や古典を焼却する「戒壇焼」が行われたと言われており、これによって多くの文書が失われたと考えられています。

2)なぜ古墳時代には日本の歴史や文化を明確に記録した文書があまり残っていないのかについては、複数の要因が考えられます。

  1. 文字の使用が限定的であった可能性: 文字による文書の作成や保存が行われなかったのかもしれません。
  2. 文書の崩壊や喪失: 古代の日本は火災や戦乱などの災害が多く、文書が失われたり、破壊されたりした可能性も考えられます。
  3. 政治的・社会的な事情: 複数の地域的な政治的組織や勢力が存在しており、異なる集団間の対立や連合などがあったとされています。

(結論)古事記、日本書記以外に記録がない。不思議ですね(筆者ツブヤキ)


589隋

■527年、継体天皇、
筑紫国造磐井の乱が勃発。
新羅に兵,
物部麁鹿火を九州に派遣しこれを制圧。
538年、仏教伝来
■592年、聖徳太子※秦河勝(太子の秘書)


618
●660百済滅亡
●668高句麗滅亡

■608遣隋使
武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)桓武天皇の生母

645年、乙巳の編
飛鳥時代645年乙巳の年)に中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変

■663白村江の戦い
白村江(はくそんこう)大敗後
①百済復興の望みが絶えると,そのとき百済の貴族・官人以下おそらく4000~5000人以上の人々が日本に亡命してきた。

⓶その5年後に高句麗も新羅と連合した唐の軍勢に攻め滅ぼされたが,そのときにも高句麗王族を含むかなり多数の亡命者があった。亡命者群が,古代帰化人の中では集団をなして渡来した最大のものだったと思われる。『続日本紀』武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市飯能市高麗神社日高市

672壬申の乱
673古事記編纂
712古事記
720藤原不比等没
日本書記全30巻刊行

中臣鎌足とは

百済政権への移行

「中臣鎌足」
出自不明とされている。
神谷説では、百済王族である。百済滅亡後、その再興を願い「白村江(はくそんこう」で戦う。

百済の王子 豊璋説
631年に日本に渡ってきた「百済の王子 豊璋」という人が中臣鎌足であったと言われている。天智は「白村江の戦い」の際に3万に近い兵を百済救援に送っている。「白村江の戦い」による5万人におよぶ亡命者の内 3000人を近江に住ませ、農地を無償で与え、3年間の食糧を無償で提供している。天智は667年 都を「近江」に移している。これらの事実は、百済と倭国は姻戚関係にあったことを物語る。

藤原不比等の目標
(天皇と百済王家との血縁関係づくり) 
「大化の改新」は 藤原鎌足 安倍内麻呂 金春秋 高向玄理 などの渡来人によって行われたと文定昌は述べている。また、「大宝律令(701年)」制定の中心メンバー 「藤原不比等」は鎌足の子息である。不比等は本妻の娘を文武天皇、後妻の娘を聖武天皇の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。

梅原猛説
「天皇家と藤原家は一体」である。
梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。『日本書紀』は不比等を編集責任者とし、太安万呂など歴史に詳しい渡来人によって書かれた」と述べている。「日本書紀」は百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されているという。

阿生山古墳
中臣鎌足の墓説

阿武山古墳は、阿武山の中腹・標高約210メートルの尾根上にあります。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設のさいに偶然発見されました。

遺体は身長164㌢、60歳代の男性、1987年(昭和62年)に発掘当時撮影したX線写真が多数見つかり、それらを解析した結果、肋骨を損傷していたことなど、新たな事実が判明する。史料によると鎌足は亡くなる直前に落馬し、その怪我から体調を崩し亡くなったとある。

出土品復元
大織冠という冠位が使用されたのは647年から685年、大織冠を授かったのは歴史上で鎌足のみ

墓の形式は朝鮮式

中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました。日本で初めての発見である。

藤原四家のルーツ

藤原不比等により、悲願の「百済王家の再興」を成し遂げたのです。既に、半島に百済なくとも、大和国で「百済血統」を残したのです。系図にある通り、娘を文武天皇や聖武天皇に嫁がせ、生まれた皇子を天皇にすることが出来たのでした。

縄文系邪馬台国から始まったヤマト政権は、帰化人の百済系政権へと移行してゆきました。(神谷昭説)


【神谷昭後記】
日本人とは、安定的縄文期以降、東アジアからの異民族の大流入によっれ形創られた民族です。一民族が植民支配することなく、聖徳太子曰く「和をもって尊しとなす」は、日本人の根本精神だと思いました。