古事記 中の巻
以下、著者意義ありです。東征は卑弥呼政権で行われた統一と移民政策です。この経緯は藤原不比等らによって歴史改変されたと百済政権と神武天皇が「神話的に結合された」と解釈するのが科学的です。
一、神武天皇
東征
――日向から發して大和にはいろうとして失敗することを語る。速吸の門の物語の位置が地理の實際と合わないのは、諸氏の傳來の合併だからである。――
カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、「何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐後のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰りの宮を作つて、御馳走を致しました。其處からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後の高島の宮に八年おいでになりました。
速吸の門
その國から上つておいでになる時に、龜の甲に乘つて釣をしながら勢いよく身體を振つて來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知つているか」とお尋ねになりますと「よく知つております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました。
イツセの命
その國から上つておいでになる時に、難波の灣を經て河内の白肩の津に船をお泊めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下の蓼津と言つております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今からつて行つて日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方からつておいでになる時に、和泉の國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處からつておいでになつて、紀伊の國のヲの水門においでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門と言います。御陵は紀伊の國の竈山にあります。
熊野から大和へ
――神話の要素の多い部分で、神話の成立過程も窺われる。――
カムヤマトイハレ彦の命は、その土地からつておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失つて仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤めになつて、「隨分寢たことだつた」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失つた軍隊が悉く寤めました。そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子たちは困つていらつしやるらしい。あの葦原の中心の國はもつぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降つて行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤めたら、この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今石上神宮にあります。
ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏をよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌を入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光つております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。それから山坂を蹈み穿つて越えてウダにおいでになりました。依つて宇陀のウガチと言います。
久米歌
――幾首かの久米歌に結びついている物語である。――
この時に宇陀にエウカシ・オトウカシという二人があります。依つてまず八咫烏を遣つて、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢を以つてその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼と言います。「待つて撃とう」と言つて軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞つて、大殿を作つてその殿の内に仕掛を作つて待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作つて待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました。そこで大伴の連等の祖先のミチノオミの命、久米の直等の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵つて言うには、「貴樣が作つてお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入つてお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言つて、刀の柄を掴み矛をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張つて置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀の血原と言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは、
宇陀の高臺でシギの網を張る。
わたしが待つているシギは懸からないで
思いも寄らないタカが懸かつた。
古妻が食物を乞うたら
ソバノキの實のように少しばかりを削つてやれ。
新しい妻が食物を乞うたら
イチサカキの實のように澤山に削つてやれ。
ええやつつけるぞ。ああよい氣味だ。
そのオトウカシは宇陀の水取等の祖先です。
次に、忍坂の大室においでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威張つております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は、
忍坂の大きな土室に
大勢の人が入り込んだ。
よしや大勢の人がはいつていても
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
やつつけてしまうぞ。
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
そら今撃つがよいぞ。
かように歌つて、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました。
その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになつた歌は、
威勢のよい久米の人々の
アワの畑には臭いニラが一本生えている。
その根のもとに、その芽をくつつけて
やつつけてしまうぞ。
また、
威勢のよい久米の人々の
垣本に植えたサンシヨウ、
口がひりひりして恨みを忘れかねる。
やつつけてしまうぞ。
また、
神風の吹く伊勢の海の
大きな石に這いつている
細螺のように這いつて
やつつけてしまうぞ。
また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌、
楯を竝べて射る、そのイナサの山の
樹の間から行き見守つて
戰爭をすると腹が減つた。
島にいる鵜を養う人々よ
すぐ助けに來てください。
最後にトミのナガスネ彦をお撃ちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參つて申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになつたと聞きましたから、後を追つて降つて參りました」と申し上げて、天から持つて來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部の連・穗積の臣・采女の臣等の祖先です。そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥つて、畝傍の橿原の宮において天下をお治めになりました。
神の御子
――英雄や佳人などを、神が通つて生ませた子だとすることは、崇神天皇の卷にもあり、廣く信じられていたところである。――
はじめ日向の國においでになつた時に、阿多の小椅の君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました。しかし更に皇后となさるべき孃子をお求めになつた時に、オホクメの命の申しますには、「神の御子と傳える孃子があります。そのわけは三嶋のミゾクヒの娘のセヤダタラ姫という方が非常に美しかつたので、三輪のオホモノヌシの神がこれを見て、その孃子が厠にいる時に、赤く塗つた矢になつてその河を流れて來ました。その孃子が驚いてその矢を持つて來て床の邊に置きましたところ、たちまちに美しい男になつて、その孃子と結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこの方は名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトという事を嫌つて、後に改めたのです。そういう次第で、神の御子と申すのです」と申し上げました。
ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混つていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、
大和の國のタカサジ野を
七人行く孃子たち、
その中の誰をお召しになります。
このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前に立つておりました。天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番前に立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、
まあまあ一番先に立つている娘を妻にしましようよ。
ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目に黥をしているのを見て不思議に思つて、
天地間の千人勝りの勇士だというに、どうして目に黥をしているのです。
と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、
お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥をしております。
と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。
そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆を清らかに敷いて、
二人で寢たことだつたね。
かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です。
タギシミミの命の變
――自分の家の祖先は、天皇の兄に當るのだが、なぜ臣下となつたかということを語る説話。前にも隼人の話はそれであり、後にも例が多い。カムヤヰミミの命の子孫というオホの臣が、古事記の撰者の太の安萬侶の家であることに注意。――
天皇がお隱れになつてから、その庶兄のタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺そうとして謀つたので、母君のイスケヨリ姫が御心配になつて、歌でこの事を御子たちにお知らせになりました。その歌は、
サヰ河の方から雲が立ち起つて、
畝傍山の樹の葉が騷いでいる。
風が吹き出しますよ。
畝傍山は晝は雲が動き、
夕暮になれば風が吹き出そうとして
樹の葉が騷いでいる。
そこで御子たちがお聞きになつて、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤヰミミの命に、「あなたは武器を持つてはいつてタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持つておられる武器を乞い取つて、はいつてタギシミミを殺しました。そこでまた御名を讚えてタケヌナカハミミの命と申し上げます。
かくてカムヤヰミミの命が弟のタケヌナカハミミの命に國を讓つて申されるには、「わたしは仇を殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であつても、上にいることはできません。あなたが天皇になつて天下をお治め遊ばせ。わたしはあなたを助けて祭をする人としてお仕え申しましよう」と申しました。そこでそのヒコヤヰの命は、茨田の連・手島の連の祖先です。カムヤヰミミの命は、意富の臣・小子部の連・坂合部の連・火の君・大分の君・阿蘇の君・筑紫の三家の連・雀部の臣・雀部の造・小長谷の造・都祁の直・伊余の國の造・科野の國の造・道の奧の石城の國の造・常道の仲の國の造・長狹の國の造・伊勢の船木の直・尾張の丹羽の臣・島田の臣等の祖先です。カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御歳百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあります。
二、綏靖天皇以後八代
綏靖天皇
――以下八代は、帝紀の部分だけで、本辭を含んでいない。この項など、帝紀の典型的な例と見られる。――
カムヌナカハミミの命(綏靖天皇)、大和の國の葛城の高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主の祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになつた御子はシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵は衝田の岡にあります。
安寧天皇
シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽の浮穴の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主ハエの女のアクト姫と結婚してお生みになつた御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました。次にシキツ彦の命の御子がお二方あつて、お一方の子孫は、伊賀の須知の稻置・那婆理の稻置・三野の稻置の祖先です。お一方の御子ワチツミの命は淡路の御井の宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉君はハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレ姫の命、妹君はハヘイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。
懿徳天皇
オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕の境岡の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主の祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました。次にタギシ彦の命は、血沼の別・多遲麻の竹の別・葦井の稻置の祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。
孝昭天皇
ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾張の連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は・[#「・」はママ]春日の臣・大宅の臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋の臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀の臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶の臣・都怒山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多山の上にあります。
孝安天皇
オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は姪のオシカ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。
孝靈天皇
オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日のチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子は合わせて八人おいでになりました。男王五人、女王三人です。
そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨の氷の河の埼に忌瓮を据えて神を祭り、播磨からはいつて吉備の國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿の臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志の利波の臣・豐國の國前の臣・五百原の君・角鹿の濟の直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂の上にあります。
孝元天皇
――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。――
オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方おいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳の臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張の連の祖先のオホナビの妹の葛城のタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰、これは山代の内の臣の祖先です。また木の國の造の祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九人あります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向の臣・小治田の臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰は、平群の臣・佐和良の臣・馬の御の連等の祖先です。キノツノの宿禰は、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城の長江のソツ彦は、玉手の臣・的の臣・生江の臣・阿藝那の臣等の祖先です。次に若子の宿禰は、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵は劒の池の中の岡の上にあります。
開化天皇
ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波の大縣主ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになつた御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヒコイマスの王お一方です。また葛城のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになつた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山代のエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御上山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました。兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遲部・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當麻の勾の君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日下部の連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛野の別・近つ淡海の蚊野の別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎女と結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本巣の國の造・長幡部の連の祖先です。その山代のオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹波のアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹波の遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遲の君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但馬の國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依網の阿毘古等の祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。
三、崇神天皇
后妃と皇子女
――帝紀の前半と見られる部分である。――
イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木の水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦の命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛野・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先です。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。
美和の大物主
――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神氏、鴨氏等の祖先の物語。――
この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢みになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡びになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀の墨坂の神に赤い色の楯矛を獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛を獻りました。これによつて疫病が止んで國家が平安になりました。
このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿威儀竝びなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛でて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子が姙みました。そこで父母が姙娠したことを怪しんで、その女に、「お前は自然に姙娠した。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然に姙みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物の裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神の君・鴨の君の祖先です。
將軍の派遣
――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。――
またこの御世に大彦の命をば越の道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳を穿いた女が山城のヘラ坂に立つて歌つて言うには、
御眞木入日子さまは、
御自分の命を人知れず殺そうと、
背後の入口から行き違い
前の入口から行き違い
窺いているのも知らないで、
御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。
さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對い立つて挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射中てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎が出て褌にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜のように河に浮きました。依つてその河を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。
かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津で行き遇いましたから、其處を會津というのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢らしめました。そこでその御世を讚えて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網の池を作り、また輕の酒折の池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾の岡の上にあります。
四、垂仁天皇
后妃と皇子女
イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木の玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生みになつた御子はホムツワケの命お一方です。また丹波のヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山代の大國のフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御身の長さ一丈二寸、御脛の長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血沼の池・狹山の池を作り、また日下の高津の池をお作りになりました。また鳥取の河上の宮においでになつて大刀一千振をお作りになつて、これを石上の神宮にお納めなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三枝の別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石无の別・許呂母の別・高巣鹿の別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴本部の別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小目の山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志の池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽咋の君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃になりました。
サホ彦の叛亂
――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。――
この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢みになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸をお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀しい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾らした。また錦色の小蛇がわたしの頸に纏いついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方がなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀しみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾らしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました。
そこで天皇は「わたしはあぶなく欺かれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。
この時にその皇后は姙娠しておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆い、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪りになりました。それで諺に、「處を得ない玉作だ」というのです。
また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子の名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫・弟姫という二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。
ホムチワケの御子
――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。――
かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二俣の杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊のオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因幡の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追いつて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越の國に行つて、ワナミの水門で罠を張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水門をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。
そこで天皇が御心配遊ばされてお寢みになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜の法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟は出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼の廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木、登美の豐朝倉のアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛だの盲だのに遇うだろう。二上山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊の道こそは幸先のよい道であると占つて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部の人民をお定めになりました。
かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石※[#「石+炯のつくり」、U+2544E、282-5]の曾の宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔の長穗の宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。
そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺いて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠から御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘・品遲部・大湯坐・若湯坐をお定めになりました。
丹波の四女王
――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。――
天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻ずかしい」と言つて、山城の國の相樂に行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木と言いましたのを今は相樂と言うのです。また弟國に行きました時に遂に峻しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國と言いましたが、今では弟國と言うのです。
時じくの香の木の實
――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。――
また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世の國に遣して、時じくの香の木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓の形になつているもの八本、矛の形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓四本矛四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香の木の實を持つて參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野の中にあります。
またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部をお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました。
五、景行天皇・成務天皇
景行天皇の后妃と皇子女
オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向の日代の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉備の臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨のイナビの大郎女と結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女ヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御子がおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の七十七王は悉く諸國の國の造・別・稻置・縣主等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウスの命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は、日向の國の造の祖先です。
ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫弟姫の二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都の君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門をお定めになり、また膳の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその堤に竹を植えさせなさいました。
ヤマトタケルの命の西征
――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。劇的な構成に注意。――
天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠におはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦につつんで投げすてました」と申しました。
そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室を作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳り下げ、叔母樣のお衣裳をお著けになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣はどなたでいらつしやいますか」と申しましたから、「わたしは纏向の日代の宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。
イヅモタケル
――日本書紀では、全然ヤマトタケルの命と關係のない物語になつている。種々の物語がこの英雄の事として結びついてゆく。――
そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮で刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換えよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑まれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになつた歌、
雲の叢り立つ出雲のタケルが腰にした大刀は、
蔓を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。
かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。
ヤマトタケルの命の東征
――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまつて、美しい物語になつている。――
ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊の長い矛を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでになるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢をお授けになつて、「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。
かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐つて言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といつております。
其處からおいでになつて、走水の海をお渡りになつた時にその渡の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
高い山の立つ相摸の國の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立つて
わたくしをお尋ねになつたわが君。
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。
それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。
その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、
常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。
ここにその火を燒いている老人が續いて、
日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます。
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻の國の造になさいました。
かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛の裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、
仰ぎ見る天の香具山
鋭い鎌のように横ぎる白鳥。
そのようなたおやかな弱腕を
抱こうとはわたしはするが、
寢ようとはわたしは思うが、
あなたの著ている打掛の裾に
月が出ているよ。
そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。
照り輝く日のような御子樣
御威光すぐれたわたしの大君樣。
新しい年が來て過ぎて行けば、
新しい月は來て過ぎて行きます。
ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて
わたくしのきております打掛の裾に
月も出るでございましようよ。
そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。
望郷の歌
――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。――
そこで「この山の神は空手で取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢いました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨を降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉倉部の清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです。
其處からお立ちになつて當藝の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝といいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
尾張の國に眞直に向かつている
尾津の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だつたら
大刀を佩かせようもの、着物を著せようもの、
一本松よ。お前。
其處からおいでになつて、三重の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。
其處からおいでになつて、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。
重なり合つている青い垣、
山に圍まれている大和は美しいなあ。
命が無事だつた人は、
大和の國の平群の山の
りつぱなカシの木の葉を
頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇つて來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりに
わたしの置いて來た良く切れる大刀、
あの大刀はなあ。
と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。
白鳥の陵
――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。――
ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這いつてお泣きになつてお歌いになりました。
周りの田の稻の莖に、
稻の莖に、
這い繞つているツルイモの蔓です。
しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹の苅株に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、
小篠が原を行き惱む、
空中からは行かずに、歩いて行くのです。
また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、
海の方から行けば行き惱む。
大河原の草のように、
海や河をさまよい行く。
また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔つておいでになつて、河内の志幾にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するためにつておいでになつた時に、久米の直の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。
ヤマトタケルの命の系譜
――實際あり得ない關係も記されている。――
このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代のククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。
それでタラシナカツ彦の命は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁の別・麻佐の首・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代の別・漁田の別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。
成務天皇
――國縣の堺を定め、國の造、縣主を定め、地方行政の基礎が定められた。――
ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀の高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積の臣の祖先、タケオシヤマタリネの女のオトタカラの郎女と結婚してお生みになつた御子はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿禰を大臣となされ、大小國々の國の造をお定めになり、また國々の堺、また大小の縣の縣主をお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀の多他那美にあります。
六、仲哀天皇
后妃と皇子女
タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門の豐浦の宮また筑紫の香椎の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕に鞆の形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました。
神功皇后
――御母はシラギ人天の日矛の系統で、シラギのことを知つておられたのだろうという。――
皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸りをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈きになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、「西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう」と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高い處に登つて西の方を見ても、國が見えないで、ただ大海のみだ」と言われて、詐をする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つておいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて「すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈き遊ばせ」と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生々にお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の音が聞えなくなりました。そこで火を點して見ますと、既にお隱れになつていました。
そこで驚き恐懼して御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣帛を取つて、生剥・逆剥・畦離ち・溝埋め・屎戸・不倫の結婚の罪の類を求めて大祓してこれを清め、またタケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」とお教えになりました。
そこでタケシウチの宿禰が、「神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹においでになる御子は何の御子でございますか と[#「ございますか と」はママ]申しましたところ、「男の御子だ」と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」と申しましたところ、お答え遊ばされるには「これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛を奉り、わたしの御魂を御船の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠に入れ、また箸と皿とを澤山に作つて、悉く大海に散らし浮べてお渡りなさるがよい」と仰せなさいました。
そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅の國に押し上つて國の半にまで到りました。依つてその國王が畏じ恐れて、「今から後は天皇の御命令のままに馬飼として、毎年多くの船の腹を乾さず、柁を乾さずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましよう」と申しました。かような次第で新羅の國をば馬飼とお定め遊ばされ、百濟の國をば船渡りの役所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神として祭つてお還り遊ばされました。
鎭懷石と釣魚
かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。
また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになつて、その河の邊で食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河といい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません。
カゴサカの王とオシクマの王
――ある戰亂の武勇譚が、歌を插入して誇張されてゆく。――
オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪の船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つて御覽になると、大きな怒り猪が出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋いました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。
この時にオシクマの王は、難波の吉師部の祖先のイサヒの宿禰を將軍とし、太子の方では丸邇の臣の祖先の難波ネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶つて詐つて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏いました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢坂に逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫り敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫められて、湖上に浮んで歌いました歌、
さあ君よ、
フルクマのために負傷するよりは、
カイツブリのいる琵琶の湖水に
潛り入ろうものを。
と歌つて海にはいつて死にました。
氣比の大神
――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。――
かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀れたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います。
酒の座の歌曲
――酒宴の席に演奏される歌曲の説明。――
其處から還つてお上りになる時に、母君のオキナガタラシ姫の命がお待ち申し上げて酒を造つて獻上しました。その時にその母君のお詠み遊ばされた歌は、
このお酒はわたくしのお酒ではございません。
お神酒の長官、常世の國においでになる
岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が
祝つて祝つて祝い狂わせ
祝つて祝つて祝いつて
獻上して來たお酒なのですよ。
盃をかわかさずに召しあがれ。
かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、
このお酒を釀造した人は、
その太鼓を臼に使つて、
歌いながら作つた故か、
舞いながら作つた故か、
このお酒の
不思議に樂しいことでございます。
これは酒樂の歌でございます。
すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌の年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱れになりました。狹城の楯列の御陵にお葬り申し上げました。
七、應神天皇
后妃と皇子女
ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島の明の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御子は、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎女・タカモクの郎女の御五方です。中姫の命の生んだ御子は、キノアラタの郎女・オホサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿部の郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎子・ヤタの若郎女・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマタナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田部の連の祖先のシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊ばされました。男王十一人女王十五人です。この中でオホサザキの命は天下をお治めになりました。
オホヤマモリの命とオホサザキの命
――天皇が、兄弟の御子に對してテストをされる。その結果弟が帝位を繼承することになる。これもきまつた型で、兄の系統ではあるが、臣下となつたという説明の物語である。これはあとに後續の説話がある。――
ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか」とお尋ねなさいました。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであります。しかるにオホヤマモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申されますには、「大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、「オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです」と仰せになつて、そこでそれぞれに詔を下されて、「オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウヂの若郎子は帝位におつきなさい」とお分けになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。
葛野の歌
――國ほめの歌曲の一つ。――
或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛野を御覽になつてお詠みになりました御歌、
葉の茂つた葛野を見れば、
幾千も富み榮えた家居が見える、
國の中での良い處が見える。
蟹の歌
――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。――
かくて木幡の村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
この蟹はどこの蟹だ。
遠くの方の敦賀の蟹です。
横歩きをして何處へ行くのだ。
イチヂ島・ミ島について、
カイツブリのように水に潛つて息をついて、
高低のあるササナミへの道を
まつすぐにわたしが行きますと、
木幡の道で出逢つた孃子、
後姿は楯のようだ。
齒竝びは椎の子や菱の實のようだ。
櫟井の丸邇坂の土を
上の土はお色が赤い、
底の土は眞黒ゆえ
眞中のその中の土を
かぶりつく直火には當てずに
畫眉を濃く畫いて
お逢いになつた御婦人、
このようにもとわたしの見たお孃さん、
あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
思いのほかにも向かつていることです。
添つていることです。
かくて御結婚なすつてお生みになつた子がウヂの若郎子でございました。
髮長姫
――酒宴で孃子を贈り、また孃子を得た喜びの歌曲。古く諸縣舞という舞があつたが、關係があるかもしれない。――
また天皇が、日向の國の諸縣の君の女の髮長姫が美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召し上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰にお頼みになるには「この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉を取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、
さあお前たち、野蒜摘みに
蒜摘みにわたしの行く道の
香ばしい花橘の樹、
上の枝は鳥がいて枯らし
下の枝は人が取つて枯らし、
三栗のような眞中の枝の
目立つて見える紅顏のお孃さんを
さあ手に入れたら宜いでしよう。
また、
水のたまつている依網の池の
堰杙を打つてあつたのを知らずに
ジュンサイを手繰つて手の延びていたのを知らずに
氣のつかない事をして殘念だつた。
かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、
遠い國の古波陀のお孃さんを、
雷鳴のように音高く聞いていたが、
わたしの妻としたことだつた。
また、
遠い國の古波陀のお孃さんが、
爭わずにわたしの妻となつたのは、
かわいい事さね。
國主歌
――吉野山中の土民の歌曲。――
また、吉野のクズどもがオホサザキの命の佩びておいでになるお刀を見て歌いました歌は、
天子樣の日の御子である
オホサザキ樣、
オホサザキ樣のお佩きになつている大刀は、
本は鋭く、切先は魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴り渡る。
また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、
カシの木の原に横の廣い臼を作り
その臼に釀したお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの父さん。
この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。
文化の渡來
――大陸の文化の渡來した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。――
この御世に、海部・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新羅人が渡つて來ましたので、タケシウチの宿禰がこれを率いて堤の池に渡つて百濟の池を作りました。
また百濟の國王照古王が牡馬一疋・牝馬一疋をアチキシに付けて貢りました。このアチキシは阿直の史等の祖先です。また大刀と大鏡とを貢りました。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千字文一卷、合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛冶屋卓素という者、また機を織る西素の二人をも貢りました。秦の造、漢の直の祖先、それから酒を造ることを知つているニホ、またの名をススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、
ススコリの釀したお酒にわたしは醉いましたよ。
平和なお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺に「堅い石でも醉人に遇うと逃げる」というのです。
オホヤマモリの命とウヂの若郎子
――オホヤマモリの命を始祖と稱する山部の人々の傳えた物語。――
かくして天皇がお崩れになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲ようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船を具え飾り、さな葛という蔓草の根を臼でついて、その汁の滑を取り、その船の中の竹簀に塗つて、蹈めば滑つて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、
流れの早い宇治川の渡場に
棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。
そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼に到つて沈みました。それで鉤をもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、
流れの早い宇治川の渡場に
渡場に立つている梓弓とマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
本の方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしく其處で思い出し
かわいそうに其處で思い出し、
切らないで來た梓弓とマユミの木。
そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形の君・幣岐の君・榛原の君等の祖先です。
かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海人が貢物を獻りました。依つて兄の王はこれを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされることは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、「海人だから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。
天の日矛
――異類婚姻説話の一つ、朝鮮系統のものである。終りに出石神社の由來がある。但馬の國の語部が傳えたのだろう。――
また新羅の國王の子の天の日矛という者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。
その伺つていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包んで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たちの飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飮食物を牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう」と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答えて言うには、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです」と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心奢りして妻を詈りましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言つて、竊に小船に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つて更に還つて、但馬の國に船泊てをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生んだ子はタヂマモロスクです。その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚して生んだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪のユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。
この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたもの二本、また浪振る領巾・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社に祭つてある八神です。
秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫
――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずつと日本ふうになつている。海幸山幸物語との類似點に注意。――
ここに神の女、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下氷壯夫・春山の霞壯夫という兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ孃子を得ようと思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか」と言いましたから、「たやすいことです」と言いました。そこでその兄の言いますには、「もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈ほどに甕に酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走をしよう」と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣・褌・襪・沓まで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓矢を孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。
そこでその兄に「わたしはイヅシ孃子を得ました」と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うには、「わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない」と言つて、その兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛言を言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎れるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈ちたり乾たりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」と、このように詛つて、竈の上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、乾き萎れ病み伏しました。そこでその兄が、泣き悲しんで願いましたから、その詛の物をもとに返しました。そこでその身がもとの通りに安らかになりました。
系譜
――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。――
このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息長の君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人の君・山道の君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の裳伏の岡にあります。
[#改ページ]