古事記 下の巻

一、仁徳天皇

后妃と皇子女

 オホサザキの命(仁徳天皇)、難波なにわ高津たかつの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の女のいわひめの命(皇后)と結婚してお生みになつた御子は、オホエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タヂヒノミヅハワケの命・ヲアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの女の髮長姫と結婚してお生みになつた御子みこはハタビの大郎子、またの名はオホクサカの王・ハタビの若郎女、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの命のお二方です。また庶妹ヤタの若郎女と結婚し、また庶妹ウヂの若郎女と結婚しました。このお二方は御子がありません。すべてこの天皇の御子たち合わせて六王ありました。男王五人女王一人です。この中、イザホワケの命は天下をお治めなさいました。次にタヂヒノミヅハワケの命も天下をお治めなさいました。次にヲアサヅマワクゴノスクネの命も天下をお治めなさいました。この天皇の御世に皇后いわひめの命の御名の記念として葛城部をお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名の記念として壬生部をお定めになり、またミヅハワケの命の御名の記念として蝮部たじひべをお定めになり、またオホクサカの王の御名の記念として大日下部おおくさかべをお定めになり、ワカクサカベの王の御名の記念として若日下部をお定めになりました。

聖の御世

――撫民厚生の御事蹟を取りあつめている。聖の御世というのは、外來思想で、文字による文化が行われていたことを語る。――

 この御世に大陸から來た秦人はたびとを使つて、茨田うまらだの堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇わにの池、依網よさみの池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅おばしの江を掘り、墨江すみのえの舟つきをお定めになりました。
 或る時、天皇、高山にお登りになつて、四方を御覽になつて仰せられますには、「國内に烟が立つていない。これは國がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税勞役をすべて免せ」と仰せられました。この故に宮殿が破壞して雨が漏りますけれども修繕なさいません。を掛けて漏る雨を受けて、漏らない處にお遷り遊ばされました。後に國中を御覽になりますと、國に烟が滿ちております。そこで人民が富んだとお思いになつて、始めて租税勞役を命ぜられました。それですから人民が榮えて、勞役に出るのにくるしみませんでした。それでこの御世を稱えてひじりの御世と申します。

吉備の黒日賣

――吉備氏の榮えるに至つた由來の物語。――

 皇后石の姫の命は非常に嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになつた女たちは宮の中にも入りません。事が起ると足擦あしずりしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備きび海部あまべあたえの女、黒姫くろひめという者が美しいとお聞き遊ばされて、し上げてお使いなさいました。しかしながら皇后樣のお妬みになるのを畏れて本國に逃げ下りました。天皇は高殿においで遊ばされて、黒姫の船出するのを御覽になつて、お歌い遊ばされた御歌、

おきほうには小舟おぶねが續いている。
あれはいとしのあの
國へ歸るのだ。

 皇后樣はこの歌をお聞きになつて非常にお怒りになつて、船出の場所に人を遣つて、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。
 ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣にいつわつて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、

海の照り輝く難波の埼から
立ち出でて國々を見やれば、
アハ島やオノゴロ島
アヂマサの島も見える。
サケツ島も見える。

 そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこであつものを獻ろうとして青菜をんでいる時に、天皇がその孃子の青菜を採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、

山の畑に蒔いた青菜も
吉備の人と一緒に摘むと
樂しいことだな。

 天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、

大和の方へ西風が吹き上げて
雲が離れるように離れていても
忘れは致しません。

 また、

大和の方へ行くのは誰方樣どなたさまでしよう。
地の下の水のように、心の底で物思いをして
行くのは誰方樣どなたさまでしよう。

皇后石の姫の命

――靜歌の歌い返しと稱する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が插入されている。――

 これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、かしわの葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁しちようが自分の國に歸ろうとして、難波の大渡おおわたりで遲れた雜仕女ぞうしおんなの船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。
 そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せたかしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津みつの埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、

山また山の山城川を
上流へとわたしが溯れば、
河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木の
その下に生い立つている
葉の廣い椿の大樹、
その椿の花のように輝いており
その椿の葉のように廣らかにおいでになる
わが陛下です。

 それから山城から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、

山また山の山城川を
御殿の方へとわたしが溯れば、
うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎ
わたしの見たいと思う處は、
葛城かずらきの高臺の御殿、
故郷の家のあたりです。

 かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木つつきの韓人のヌリノミの家におはいりになりました。天皇は皇后樣が山城を通つて上つておいでになつたとお聞き遊ばされて、トリヤマという舍人とねりをお遣りになつて歌をお送りなさいました。その御歌は、

山城やましろけ、トリヤマよ。
追い附け、追い附け。最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。

 つづいて丸邇わにおみクチコを遣して、御歌をお送りになりました。

ミモロ山の高臺たかだいにある
オホヰコの原。
その名のような大豚おおぶたの腹にある
向き合つている臟腑きも、せめて心だけなりと
思わないで居られようか。

 またお歌い遊ばされました御歌、

やままたやまの山城の女が
木の柄のついたくわで掘つた大根、
その眞白まつしろな白い腕を
わさずに來たなら、知らないとも云えようが。

 このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降つておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違つてうしろの方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違つて前の方においでになりました。それでつて庭の中にひざまずいている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染あいぞめの衣を著ておりましたから、水潦みずたまりが赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、

山城やましろ筒木つつきみや
申し上げている兄上を見ると、
涙ぐまれて參ります。

 そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に、「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました。
 そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼つている蟲が、一度はう蟲になり、一度はからになり、一度は飛ぶ鳥になつて、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變つたお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた時に、ヌリノミが自分の飼つている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになつて、お歌い遊ばされた御歌、

山また山の山城の女が
木の柄のついた鍬で掘つた大根、
そのようにざわざわとあなたが云うので、
見渡される樹の茂みのように
にぎやかにやつて來たのです。

 この天皇と皇后樣とお歌いになつた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます。

ヤタの若郎女

――八田部の人々の傳承であろう。――

 天皇、ヤタの若郎女をお慕いになつて歌をお遣しになりました。その御歌は、

ヤタの一本菅は、
子を持たずに荒れてしまうだろうが、
惜しい菅原だ。
言葉でこそ菅原というが、
惜しい清らかな女だ。

 ヤタの若郎女のお返しの御歌は、

八田やた一本菅いつぽんすげはひとりで居りましても、
陛下が良いと仰せになるなら、ひとりでおりましても。

ハヤブサワケの王とメトリの王

――もと鳥のハヤブサとサザキとが女鳥を爭う形で、劇的に構成されている。――

 また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人なこうどとしてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言われますには、「皇后樣を憚かつて、ヤタの若郎女をもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあなた樣の妻になろうと思います」と言つて結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王は御返事申しませんでした。ここに天皇は直接にメトリの王のおいでになる處に行かれて、その戸口のしきいの上においでになりました。その時メトリの王ははたにいて織物を織つておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌は、

メトリの女王の織つていらつしやるはたは、
誰の料でしようかね。

 メトリの王の御返事の歌、

大空おおぞらたかぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。

 それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつた歌は、

雲雀は天に飛び翔ります。
大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、
サザキをお取り遊ばせ。

 天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、

梯子はしごを立てたような、クラハシ山がけわしいので、
岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。

 また、

梯子はしごを立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、
わが妻と登れば嶮しいとも思いません。

 それから逃げて、宇陀うだのソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。
 その時に將軍山部の大楯おおだてが、メトリの王の御手にいておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りました。そこで皇后いわの姫の命が、お手ずから御酒みきかしわの葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はその腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられましたことは、「あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにそのやつは自分の君の御手に纏いておいでになつた玉の腕飾を、はだあたたかいうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです」と仰せられて、死刑に行われました。

雁の卵

――御世の榮えを祝う歌曲。――

 また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島ひめじまにおいでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチの宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、

わが大臣よ、
あなたは世にも長壽の人だ。
この日本の國に
雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。

 ここにタケシウチの宿禰は歌をもつて語りました。

高く光り輝く日の御子樣、
よくこそお尋ねくださいました。
まことにもお尋ねくださいました。
わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、
この日本の國に
雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。

 かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。

陛下へいかはじめてお聞き遊ばしますために
雁は子を生むのでございましよう。

 これは壽歌ほぎうた片歌かたうたです。

枯野からのという船

――琴の歌。――

 この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常にはやく行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船がこわれましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、

ふねのカラノで鹽を燒いて、
その餘りを琴に作つて、
彈きなせば、鳴るユラの海峽の
海中の岩に觸れて立つている
海の木のようにさやさやとり響く。

と歌いました。これは靜歌しずうたうたかえしです。
 この天皇は御年八十三歳、丁卯ひのとうの年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受もずの耳原にあります。


二、履中天皇・反正天皇

履中天皇とスミノエノナカツ王

――大和のあや氏、多治比部などの傳承の物語。――

 御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻わかざくらの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、葛城かずらきのソツ彦ののアシダの宿禰の女の黒姫くろひめの命と結婚しておみになつた御子みこは、いちのオシハの王・ミマの王・アヲミの郎女いらつめ、又の名はイヒトヨの郎女のお三かたです。
 はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒みきにお浮かれになつて、おやすみなさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和のあやあたえの祖先のアチのあたえが、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がおめになつて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになつた御歌、

タヂヒ野で寢ようと知つたなら
屏風をも持つて來たものを。
寢ようと知つたなら。

 ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになつた御歌、

ハニフ坂にわたしが立つて見れば、
盛んに燃える家々は
妻が家のあたりだ。

 かくて二上山ふたかみやまの大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、「武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當麻路たぎまじから※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、越えておいでなさいませ」と申し上げました。依つて天皇の歌われました御歌は、

大坂でつた孃子おとめ
道を問えば眞直まつすぐにとはいわないで
當麻路たぎまじを教えた。

 それから上つておいでになつて、いそかみの神宮においで遊ばされました。
 ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許おんもとにおいでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしはきたない心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還つて行つて、スミノエノナカツ王を殺して上つておいでなさい。その時にはきつとお話をしよう」と仰せられました。依つて難波に還つておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人はやとあざむいて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。依つてその隼人に澤山物をやつて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいつておられるのを伺つて、ほこで刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上つておいでになる時に、大坂の山口においでになつてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行つたら、かえつてその心が恐しい。依つてその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まつて、まずお前に大臣の位を賜わつて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まつて假宮を造つて急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わつて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成つたと思つていました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになつて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになつた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上つておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥あすかと名づけます。大和に上つておいでになつて仰せられますには、「今日は此處に留まつて禊祓はらいをして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくていそかみの神宮に參つて、天皇に「すべて平定し終つて參りました」と奏上致しました。依つて召し入れて語られました。
 ここにおいて、天皇がアチのあたえを大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。またこの御世に若櫻部の臣等に若櫻部という名を賜わり、比賣陀ひめだの君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。また伊波禮部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬申みずのえさるの年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。

反正天皇

 弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比たじひ柴垣しばがきの宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じようにそろつて珠をつらぬいたようでございました。
 天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。天皇は御年六十歳、丁丑ひのとうしの年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。


三、允恭天皇

后妃と皇子女

 弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホホドの王の妹のオサカノオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子みこは、キナシノカルの王・ヲサダの大郎女・サカヒノクロヒコの王・アナホの命・カルの大郎女・ヤツリノシロヒコの王・オホハツセの命・タチバナの大郎女・サカミの郎女の九王です。男王五人女王四人です。このうちアナホの命は天下をお治めなさいました。次にオホハツセの命も天下をお治めなさいました。カルの大郎女はまたの名を衣通そとおしの郎女と申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。

八十伴の緒の氏姓

――氏はその家の稱號であり、姓はその家の階級、種別であつてそれが社會組織の基本となつていた。長い間にはこれを僞るものもできたので、これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。――

 はじ天皇てんのう、帝位におきになろうとしました時に御辭退遊ばされて「わたしは長い病氣があるから帝位にくことができない」と仰せられました。しかし皇后樣をはじめ臣下たちも堅くお願い申しましたので、天下をお治めなさいました。この時に新羅の國主が御調物みつぎものの船八十一艘を獻りました。その御調の大使は金波鎭漢紀武こみぱちにかにきむと言いました。この人が藥の處方をよく知つておりましたので、天皇の御病氣をお癒し申し上げました。
 ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏姓うじかばねあやまつているのをお歎きになつて、大和のウマカシの言八十禍津日ことやそまがつひさきにクカを据えて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として輕部をお定めになり、皇后樣の御名の記念として刑部おさかべをお定めになり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天皇御年七十八歳、甲午きのえうまの年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀えがの長枝にあります。

木梨の輕の太子

――幾章かの歌曲によつて構成されている物語。輕部などの傳承であろう。――

 天皇がおかくれになつてからのちに、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まつておりましたが、まだ位におつきにならないうちに妹のカルの大郎女に戲れてお歌いになつた歌、

山田を作つて、
山が高いので地の下にを通わせ、
そのように心の中でわたしの問い寄る妻、
心の中でわたしの泣いている妻を、
昨夜こそは我が手に入れたのだ。

 これは志良宜歌しらげうたです。また、

ささあられおとてる。
そのようにしつかりと共に寢た上は、
よしやきみわかれても。

いとしの妻と寢たならば、
刈り取つた薦草こもくさのように亂れるなら亂れてもよい。
寢てからはどうともなれ。

 これは夷振ひなぶり上歌あげうたです。
 そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大前小前おおまえおまえの宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカルといいます。アナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホといいます。ここにアナホの御子が軍を起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、

大前小前宿禰の家の門のかげに
お立ち寄りなさい。
雨をやませて行きましよう。

 ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞いかなで、歌つて參ります。その歌は、

宮人の足に附けた小鈴が
落ちてしまつたと騷いでおります。
里人さとびともそんなに騷がないでください。

 この歌は宮人曲みやびとぶりです。かように歌いながらやつて來て申しますには、「わたしの御子樣、そのようにお攻めなされますな。もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう」と申しました。そこで軍をめて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、

そらかり、そのカルのお孃さん。
あんまり泣くと人が氣づくでしよう。
それでハサの山の鳩のように
忍び泣きに泣いています。

 また歌われた歌は、

空飛ぶかり、そのカルのお孃さん、
しつかりと寄つて寢ていらつしやい
カルのお孃さん。

 かくてそのカルの太子を伊豫いよの國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、

空を飛ぶ鳥も使です。
鶴の聲が聞えるおりは、
わたしの事をお尋ねなさい。

 この三首の歌は天田振あまだぶりです。また歌われた歌は、

わたしを島に放逐ほうちくしたら
船の片隅に乘つて歸つて來よう。
わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。
言葉でこそ座席とはいうのだが、
わたしの妻を護つていてくれというのだ。

 この歌は夷振ひなぶり片下かたおろしです。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、

夏の草はえます。そのあいねの濱の
かきの貝殼に足をお蹈みなさいますな。
夜が明けてからいらつしやい。

 後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、

おいで遊ばしてから日數が多くなりました。
ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。
お待ちしてはおりますまい。

 かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、

隱れ國の泊瀬の山の
大きい高みには旗をおし立て
小さい高みには旗をおし立て、
おおよそにあなたの思い定めている
心盡しの妻こそは、ああ。
あのつき弓のように伏すにしても
あずさの弓のように立つにしても
後も出會う心盡しの妻は、ああ。

 またお歌い遊ばされた歌は、

隱れ國の泊瀬の川の
上流の瀬には清らかな柱を立て
下流の瀬にはりつぱな柱を立て、
清らかな柱には鏡を懸け
りつぱな柱には玉を懸け、
玉のようにわたしの思つている女、
鏡のようにわたしの思つている妻、
その人がいると言うのなら
家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。

 かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀歌よみうたでございます。


四、安康天皇

マヨワの王の變

 御子のアナホの御子(安康天皇)、いそかみの穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは「あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して「おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう」と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思つて、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取つて、オホクサカの王を讒言していうには、「オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言つて、大刀のつかをにぎつて怒りました」と申しました。それで天皇は非常にお怒りになつて、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取つて皇后になさいました。
 それから後に、天皇が神を祭つて晝おやすみになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知つたら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のおやすみになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のおくびをお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。
 ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが、この事をお聞きになつて、腹を立ててお怒りになつて、その兄のクロヒコの王のもとに行つて、「人が天皇を殺しました。どうしましよう」と言いました。しかしそのクロヒコの王は驚かないで、なおざりに思つていました。そこでオホハツセの王が、その兄を罵つて「一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなくその兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらつしやる」と言つて、着物の襟をつかんで引き出して刀を拔いて殺してしまいました。またその兄のシロヒコの王のところに行つて、樣子をお話なさいましたが、前のようになおざりにお思いになつておりましたから、クロヒコの王のように、その着物の襟をつかんで、引きつれて小治田おはりだに來て穴を掘つて立つたままに埋めましたから、腰を埋める時になつて、兩眼が飛び出して死んでしまいました。
 また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰つて、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、ほこを杖として、その内をのぞいて仰せられますには「わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか」と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは「先にお尋ねにあずかりましたむすめのカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになつたことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰つても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになつた王子は、死んでもお棄て申しません」と、このように申して、またその武器を取つて、還りはいつて戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには「わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう」と申しましたから、その王子が、お答えになつて、「それならもう致し方がない。わたしを殺してください」と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切つて死にました。

イチノベノオシハの王

――播磨の國のシジムの家に隱れていた二少年が見出されて、遂に帝位につく物語の前提である。物語は三六六ページ[#「三六六ページ」は「清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」の「シジムの新築祝い」]に續く。――

 それから後に、近江の佐々紀ささきの山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立つている足は薄原すすきはらのようであり、頂いている角は枯松かれまつのようでございます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なつて近江においでになり、その野においでになつたので、それぞれ別に假宮を作つて、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになつて、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになつて、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目めになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身おんみをもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中によろいをおつけになり、弓矢をおびになつて、馬に乘つておいでになつて、たちまちの間に馬上でお竝びになつて、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切つて、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになつて逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになつて、乾飯ほしいをおあがりになる時に、顏にいれずみをした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼ぶたかいです」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡つて、播磨はりまの國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼うまかい牛飼うしかいとして使われておいでになりました。


五、雄略天皇

后妃と皇子女

 オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷はつせの朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白髮部しらがべをお定めになり、また長谷部はつせべの舍人、河瀬の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉人くれびとが渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉原くれはらというのです。

ワカクサカベの王

――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長谷はつせの天皇として、傳説上の英雄となつておいでになつたのである。――

 初め皇后樣が河内の日下くさかにおいでになつた時に、天皇が日下の直越ただごえの道を通つて河内においでになりました。依つて山の上にお登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木をあげて作つた家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになるには、「あのやつは自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入つて拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を[#「執/糸」、U+7E36、353-17]けて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許おんもとにおいでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、「この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました。かくして皇居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、

この日下部くさかべの山と
向うの平群へぐりの山との
あちこちの山のあいだに
繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、
その樹の根もとには繁つた竹が生え、
末の方にはしつかりした竹が生え、
その繁つた竹のように繁くも寢ず
しつかりした竹のようにしかとも寢ず
後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。

 この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。

引田部の赤猪子

――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。――

 また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部ひけたべ赤猪子あかいこと申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參つたか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えずに命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、

御諸みもろ山の御神木のカシの樹のもと、
そのカシのもとのように憚られるなあ、
カシはらのお孃さん。

 またお歌いになりました御歌は、

引田ひけたの若い栗の木の原のように
若いうちに結婚したらよかつた。
年を取つてしまつたなあ。

 かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、

御諸山に玉垣を築いて、
築き殘して誰に頼みましよう。
お社の神主さん。

 また歌いました歌、

日下江くさかえの入江にはすが生えています。
その蓮の花のような若盛りの方は
うらやましいことでございます。

 そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌しずうたです。

吉野の宮

――吉野での物語二篇。――

 天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになつて琴をお彈きになり、その孃子にわしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、

椅子にいる神樣が御手みてずから
彈かれる琴に舞を舞う女は
永久にいてほしいことだな。

 それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、あぶが御腕をいましたのを、蜻蛉とんぼが來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

吉野のヲムロがたけ
ししがいると
陛下に申し上げたのは誰か。
天下を知ろしめす天皇は
猪を待つと椅子に御座ぎよざ遊ばされ
白い織物のお袖で裝うておられる
御手の肉に虻が取りつき
その虻を蜻蛉とんぼがはやく食い、
かようにして名を持とうと、
この大和の國を
蜻蛉島あきづしまというのだ。

 その時からして、その野をアキヅ野というのです。

葛城山

――葛城山に關する物語二篇。――

 また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢かぶらやをもつてその猪をお射になります時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、

天下を知ろしめす天皇の
お射になりました猪の
手負い猪のくいつくのを恐れて
わたしの逃げ登つた
岡の上のハンの木の枝よ。

 また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺あおずりの衣を給わつて著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢をつがえ、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主ひとことぬしの大神だ」と仰せられました。そこで天皇がかしこまつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長谷はつせの山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になつたのです。

春日のヲド姫と三重の采女

――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は、別の歌曲である。――

 また天皇、丸邇わにのサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、

お孃さんの隱れる岡を
じようぶなすきが澤山あつたらよいなあ、
はらつてしまうものを。

 そこでその岡をかなすきの岡と名づけました。
 また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女うねめ酒盃さかずきを捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒おおみきを獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言つて、歌いました歌、

纏向まきむく日代ひしろの宮は
朝日の照り渡る宮、
夕日の光のさす宮、
竹の根のみちている宮、
木の根の廣がつている宮です。
多くの土を築き堅めた宮で、
りつぱな材木のひのきの御殿です。
その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
一杯に繁つた槻の樹の枝は、
上の枝は天を背おつています。
中の枝は東國を背おつています。
下の枝は田舍いなかを背おつています。
その上の枝の枝先の葉は
中の枝に落ちて觸れ合い、
中の枝の枝先の葉は
下の枝に落ちて觸れ合い、
下の枝の枝先の葉は、
衣服を三重に著る、その三重から來た子の
捧げているりつぱな酒盃さかずき
浮いたあぶらのように落ちつかつて、
水音もころころと、
これは誠に恐れ多いことでございます。
尊い日の御子樣。
  事の語り傳えはかようでございます。

 この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、

大和の國のこの高町で
小高くある市の高臺の、
新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
廣葉の清らかな椿の樹、
その葉のように廣らかにおいで遊ばされ
その花のように輝いておいで遊ばされる
尊い日の御子樣に
御酒をさしあげなさい。
  事の語り傳えはかようでございます。

 天皇のお歌いになりました御歌は、

宮廷に仕える人々は、
うずらのように頭巾ひれを懸けて、
鶺鴒せきれいのように尾を振り合つて
雀のように前に進んでいて
今日もまた酒宴をしているもようだ。
りつぱな宮廷の人々。
  事の語り傳えはかようでございます。

 この三首の歌は天語歌あまがたりうたです。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。
 この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、

みずのしたたるようなそのお孃さんが、
銚子ちようしを持つていらつしやる。
銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。
ちからを入れてしつかりと持つていらつしやい。
銚子を持つていらつしやるお孃さん。

 これは宇岐歌うきうたです。ここにヲド姫の獻りました歌は、

天下を知ろしめす天皇の
朝戸にはおり立ち遊ばされ
夕戸ゆうどにはお倚り立ち遊ばされる
脇息きようそくの下の
板にでもなりたいものです。あなた。

 これは志都歌しずうたです。
 天皇は御年百二十四歳、己巳つちのとみの年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比たじひたかわしにあります。


六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇

清寧天皇

 御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和の磐余いわれ甕栗みかくりの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がおかくれになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城かずらきのオシヌミの高木たかぎのツノサシの宮においでになりました。

シジムの新築祝い

――前に出たイチノベノオシハの王の物語の續きで山部氏によつて傳承したと考えられる。この條は、特殊の文字使用法を有しており、古事記の編纂の當時、既に書かれた資料があつたようである。――

 ここに山部やまべの連小楯おだてが播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛んに遊んで、酒たけなわな時に順次に皆舞いました。その時に火焚ひたきの少年が二人かまどの傍におりました。依つてその少年たちに舞わしめますに、一人の少年が「兄上、まずおいなさい」というと、兄も「お前がまずいなさい」と言いました。かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、

武士であるわが君のお佩きになつている大刀のつかに、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物をつて附け、立つて見やれば、向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押しなびかせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子みこです。わたくしは。

と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。

歌垣

――日本書紀では、武烈天皇の太子時代のこととし、歌も多く相違している。ある王子とシビという貴公子の物語として傳承されたのが原形であろう。――

 そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群へぐりの臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田うだの長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、

御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。

 かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、

大工が下手へただつたので隅が曲つているのだ。

 シビがまた歌いますには、

王子樣の御心がのんびりしていて、
臣下の幾重にも圍つた柴垣に
入り立たずにおられます。

 ここに王子がまた歌いますには、

潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば
遊んでいるシビ魚の傍に
妻が立つているのが見える。

 シビがいよいよいかつて歌いますには、

王子樣の作つた柴垣は、
節だらけに結び※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してあつて、
切れる柴垣の燒ける柴垣です。

 ここに王子がまた歌いますには、

おおきい魚のしびを突く海人よ、
その魚が荒れたら心戀しいだろう。
しびを突くしびおみよ。

 かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつとているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。
 ここでお二方ふたかたの御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、「播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。

顯宗天皇

 イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内かわちの國の飛鳥あすかの宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子みこはありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國のいやしい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ちのぼりなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目おきめ老媼ばばという名をくださいました。かくて宮の内に召し入れてあつくお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、

茅草ちぐさの低い原や小谷を過ぎて
鈴のゆれて鳴る音がする。
置目がやつて來るのだな。

 ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、

置目よ、あの近江の置目よ、
明日からは山に隱れてしまつて
見えなくなるだろうかね。

 初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯ほしいを奪つた豚飼ぶたかいの老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
 天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵をやぶろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘りやぶりました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。かくて天皇がおかくれになつてから、オケの命が、帝位におきになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏いわつきの岡の上にあります。

仁賢天皇

――以下十代は、物語の部分が無く、もつぱら帝紀によつている。――

 ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和のいそかみの廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました。


七、武烈天皇以後九代

武烈天皇

 ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷はつせ列木なみきの宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小長谷部おはつせべをお定めになりました。御陵は片岡の石坏いわつきの岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。

繼體天皇

 ホムダの王の五世の孫のヲホドの命(繼體天皇)、大和の磐余いわれの玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、三尾みおの君等の祖先のワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、大郎子・イヅモの郎女のお二方ふたかたです。また尾張の連等の祖先のオホシの連の妹のメコの郎女と結婚してお生みになつた御子はヒロクニオシタケカナヒの命・タケヲヒロクニオシタテの命のお二方です。またオホケの天皇の御子のタシラガの命を皇后としてお生みになつた御子はアメクニオシハルキヒロニハの命お一方です。またオキナガノマテの王の女のヲクミの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ササゲの郎女お一方です。またサカタノオホマタの女のクロ姫と結婚してお生みになつた御子は、カムザキの郎女・ウマラタの郎女・シラサカノイクメコの郎女、ヲノの郎女またの名はナガメ姫のお四方です。また三尾の君カタブの妹のヤマト姫と結婚してお生みになつた御子は大郎女・マロタカの王・ミミの王・アカ姫の郎女のお四方です。また阿部のハエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ワカヤの郎女・ツブラの郎女・アヅの王のお三方です。この天皇の御子たちは合わせて十九王おいでになりました。男王七人女王十二人です。この中にアメクニオシハルキヒロニハの命は天下をお治めなさいました。次にヒロクニオシタケカナヒの命も天下をお治めなさいました。次にタケヲヒロクニオシタテの命も天下をお治めなさいました。次にササゲの王は伊勢の神宮をお祭りなさいました。この御世に筑紫の君石井が皇命にしたがわないで、無禮な事が多くありました。そこで物部もののべ荒甲あらかいの大連、大伴おおとも金村かなむらの連の兩名を遣わして、石井を殺させました。天皇は御年四十三歳、丁未ひのとひつじの年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島のあいみささぎです。

安閑天皇

 御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和のまがり金箸かなはしの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。乙卯きのとうの年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。

宣化天皇

 弟のタケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈ひのくま廬入野いおりのの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオケの天皇の御子のタチバナのナカツヒメの命と結婚してお生みになつた御子は、石姫いしひめの命・小石こいし姫の命・クラノワカエの王です。また川内かわちのワクゴ姫と結婚してお生みになつた御子はホノホの王・ヱハの王で、この天皇の御子たちは合わせて五王、男王三人、女王二人です。そのホノホの王は志比陀の君の祖先、ヱハの王は韋那いなの君・多治比の君の祖先です。

欽明天皇

 弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島しきしまの大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、ヒノクマの天皇の御子、石姫いしひめの命と結婚してお生みになつた御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌヒの王のお三方です。またその妹の小石こいし姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの女のヌカコの郎女と結婚してお生みになつた御子は、春日の山田の郎女・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。またソガのイナメの宿禰の大臣の女のキタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタチバナノトヨヒの命・イハクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・オホヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オホトモの王・サクラヰノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母のヲエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウマキの王・カヅラキの王・ハシヒトノアナホベの王・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たち合わせて二十五王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命は天下をお治めなさいました。次にタチバナノトヨヒの命・トヨミケカシギヤ姫の命・ハツセベノワカサザキの命も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。

敏達天皇

――岡本の宮で天下をお治めになつたというのが、古事記中最新の事實である。――

 御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田おさだの宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。この天皇は庶妹トヨミケカシギヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はシヅカヒの王、またの名はカヒダコの王・タケダの王、またの名はヲカヒの王・ヲハリダの王・カヅラキの王・ウモリの王・ヲハリの王・タメの王・サクラヰノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオホカのおびとの女のヲクマコの郎女と結婚してお生みになつた御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の女のヒロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオサカノヒコヒトの太子、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウヂの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の女のオミナコの郎女と結婚してお生みになつた御子はナニハの王・クハタの王・カスガの王・オホマタの王のお四方です。
 この天皇の御子たち合わせて十七王おいでになつた中に、ヒコヒトの太子は庶妹タムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになつた御子が、岡本の宮においでになつて天下をお治めなさいました天皇(舒明天皇)・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオホマタの王と結婚してお生みになつた御子は、チヌの王、クハタの女王お二方です。また庶妹ユミハリの王と結婚してお生みになつた御子はヤマシロの王・カサヌヒの王のお二方です。合わせて七王です。天皇は甲辰きのえたつの年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内かわち科長しながにあります。

用明天皇

 弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。この天皇は蘇我そが稻目いなめの大臣の女のオホギタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタメの王お一方です。庶妹ハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになつた御子は上の宮のウマヤドノトヨトミミの命・クメの王・ヱクリの王・ウマラタの王お四方です。また當麻たぎまの倉の首ヒロの女のイヒの子と結婚してお生みになつた御子はタギマの王、スガシロコの郎女のお二方です。この天皇は丁未ひのとひつじの年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余いわれ掖上わきがみにありましたが後に科長しながの中の陵におうつし申し上げました。

崇峻天皇

 弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅くらはしの柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。壬子みずのえねの年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。

推古天皇

――古事記がここで終つているのは、その材料とした帝紀がここで終つていたによるであろう。――

 妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。戊子つちのえねの年の三月十五日癸丑みずのとうしの日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。





年代記
BC14000
BC1000
900
800
700
古事記(中巻)
660年神武天皇(初代天皇)
600
581綏靖天皇2(以降8代)
549安寧天皇3
510懿徳天皇4
500
475孝昭天皇5
400
392孝安天皇6
300
290孝霊天皇7
214孝元天皇8
200
158開化天皇9
97崇神天皇10
27垂仁天皇11
BC100
AD1
AD100
71景行天皇12
131成務天皇11
192仲哀天皇14
200
270応神天皇15
300
古事記(下巻)
313仁徳天皇16
400
400履中天皇.17
406反正天皇18
412允恭天皇.19
453安康天皇.20(暗殺)
456雄略天皇.21
480清寧天皇.22
485顯宗天皇.23
488仁賢天皇.24
498武烈天皇.25(以降九代)
500
507継体天皇.26
531安閑天皇.27
535宣化天皇.28
539欽明天皇.29
572敏達天皇.30
585用明天皇.31
587崇峻天皇.32(暗殺)
592推古天皇.33
まで
600
629舒明天皇.34
642皇極天皇.35
645孝徳天皇.36
645大化の改新
655斉明天皇.37(女性)
661天智天皇.38
671弘文天皇.39
673天武天皇.40
686持統天皇.41
700
■701大宝令
707元明天皇43
710奈良平城京
715元正天皇44
724聖武天皇45
749孝謙天皇46
758淳仁天皇47
764称徳天皇48
770光仁天皇49
781桓武天皇50